有田みかんデータベース

明治以降の有田みかんの販売体制と輸送の変遷
The Transition of Sales Systems and Transportations of Arida Mikan
(Arida Mandarin) after the Meiji Era
御前 明良
Misaki, Akira
ABSTRACT
 The grown and the expansion of shipments of Arida Mikan (Arida Mandarin)for several centuries depend on the continuous improvement of sales systems and transportations. The improvement of sales systems was realized by the establishment and the reform of cooperative societies. The improvement of transportations was promoted by revolutions of the means of transportation such as ships and railroads. The transition of sales systems and transportations of Arida Mikan (Arida Mandarin) after the Meiji era is discussed in detail.
  時は貞享2年(1685年)11月。風雨逆巻く嵐の中、名にしおう熊野灘・遠州灘を乗り切った紀伊国屋文左衛門の決死の密柑輸送によって、天下に名をなした「有田ミカン」。紀文はその勇猛果敢さに加え、独創的な商才を発揮し、木材商として、江戸切っての豪商として知られるようになる。
 そして「紀文」といえば「有田ミカン」が連想されるのであるが、その有田ミカンは“蟻の熊野詣”で知られる熊野街道に沿った有田郡糸我庄(現有田市糸我町)で商品化された。同地では、古代の頃からミカンが自生し、室町時代後期には熊野参詣の都人たちの都への土産品として、有田の「密柑」が珍重されていた。
 
【紀州小ミカン】  

 その有田密柑の品種改良に取り組んだのが糸我庄の伊藤孫右衛門である。伊藤孫右衛門は肥後の国八代郡高田(こうだ)村(現八代市)においしい「ミカン」があると聞き、天正2年(1574年)にはるばる高田を訪ねて「高田小ミカン」の苗木を入手、それを在来からの自畑の密柑の木に接ぎ木して品種改良を図り、数年の苦労の末に実ったのが「紀州小ミカン」である。伊藤氏は近隣の保田庄、宮原庄、田殿庄にも栽培を奨励し、密柑産地としての礎が次第に固まっていく。
 紀州小ミカンこと「有田ミカン」はその味の良さが評判となり、堺、大阪、京都への出荷が年々増えていく。
 京都・大阪で売れるのであれば、花の都「江戸」でも売れる筈と、海路1ヶ月近くもかけてミカン輸送に賭けた男がいた。それは宮原組滝川原村の「藤兵衛」であった。寛永11年(1634年)、藤兵衛の江戸初送り400籠(6トン)はその美味なることから、一籠半(22.5キロ)が一両という高値で売れた。
 「有田ミカン」が世に知られることとなった背景には、紀州藩初代藩主浅野幸長(よしなが)・長晟(ながあきら)兄弟(頼宣入国により安芸の国へ転封)と徳川家康第十男頼宣の殖産政策によるところが大きい。就中、徳川御三家の威光のある紀州藩の産業保護の恩恵は大きい。紀州藩も山野が多く、水田に適地でない有田の地の山々を開墾して、外貨を獲得できるミカンを保護奨励することによって、「密柑税(御口銀)」という課税が出来、藩財政の貴重な財源確保ができた。
 有田ミカン発祥の地として、農業収入の増加を図った有田の人々は『密柑方』という共同出荷組織(日本最初)を寛永年間から享保年間(1624~1736年)にかけて作り上げ、ミカンの荷受け、輸送手配、資材手配・問屋への販売・代金回収、費用割り当て等を行う。藩も密柑方に「密柑税」を徴収させたことから、密柑方の役員に半官半民の特権を与えた。
 問屋との折衝で江戸に下る役員には、紀州藩の武士に準じる通行手形と帯刀を許し、道中や江戸での活動がしやすいよう支援した。これは他藩にないユニークな新システムで封建時代にあって民主導に官がバックアップするという近世経済史上でも特筆の販売システムと言えよう。
 密柑方による販売が江戸末期まで続き、大きな成果を上げるのであるが、江戸時代の終焉により、有田のミカン販売体制も紆余曲折、様々な試行錯誤を繰り返しながら、明治・大正・昭和時代、そして太平洋戦争、敗戦、GHQ統治下の農地改革等を経て、農業協同組合法が制定され、農業協同組合組織が全国的に生まれていく。
 今回は、全国初といわれる、有田のミカン共同出荷組織である「密柑方」の明治・大正・昭和に入ってからの変遷と農業協同組合成立までの経緯並びに輸送について概説する(1)

「経済理論」299号、2001年1月、和歌山大学発行、p.63~p.86に掲載
*:元紀州有田商工会議所
  元和歌山大学経済学部非常勤講師

1.明治維新と「蜜柑方制度」の崩壊
 有田ミカンは室町時代に端を発し、安土・桃山時代を経て寛永11年(1634年)に初めて江戸にて販売される。その味の良さで他藩のものを凌駕し、天下に名声を得る。
 しかし、販路開拓、販売量増加に貢献したのは、一つは紀州藩の保護政策であり、二つ目は他藩にはできなかった共同出荷組織の「密柑方制度」である。
 密柑方制度はおよそ寛永年間(1624~1643年)に芽生えて、享保年間(1716~1736年)にそのシステムが出来上がったとされているが、明治維新(1868年)を迎えるまで約200年間にわたり、紀州独特のミカン出荷組織として役割を果たしてきた。
 然るに、慶応3年(1867年)徳川幕府の大政奉還によって、江戸は東京となって遷都され、旧来の幕藩体制が全て一新されることになり、徳川御三家「紀州藩御用」の「密柑方制度」もその権勢がなくなることとなった。
 明治2年の「密柑方御用書附留」(有田市糸我生馬家所蔵(2))によると、東京駐在の密柑方荷主代表が有田から東京へ出発するにつき、江戸時代には必要であった「関所通行鑑札」の不必要と、苗字帯刀の特権がこの年から廃止された、と書留めされている。 

2.明治時代における蜜柑方制度の改革
    ・・・共同出荷組織結成の胎動
  明治の世になって大きな痛手を受けることになったのは有田地方のミカン農家達である。
 「密柑方」という半官半民の特権組織によって販売をしてきた永い間の慣行は急に改められる筈もなく、深刻な苦境に直面することとなった。その窮状を打開すべく制度改革に乗り出したのが、時の有田民政局(明治2年に湯浅に設置される、後の郡役所)局長、浜口儀兵衛(号を悟陵(3))である。
1)明治3年の改革
 浜口局長は旧幣一掃の方策を立て、新たに密柑方の運営について規定を設けた。先ず元締3名を2名に減じ、35名の荷親を廃してミカン係を21名、東京駐在の荷主代7名を「東京詰人」と改称して3名とする。各部門の冗費の節約を厳しくし、生産者の利益向上に力を注がせた。
2)明治8年新蜜柑方の結成
 明治3年の改革によって、一応販売体制が立て直されたが、世の中が万事自由となり、東京では新しくミカン問屋が続出し、取引の条件を良くして密柑生産者と直接取引をする業者も出てきて、生産者においても組合組織でなく、自由出荷を唱える者もあり、次第に秩序が乱れてきた。
 明治8年になって、新たに新密柑方を結成しようとする動きが出て、糸我庄西村の宮井庄次右衛門、同村最田九右衛門、山崎人郎、保田庄星尾村富田長吉らが中心となって郡内各地に呼びかけ、「新密柑会社」が明治8年12月に設立された。
 ところが200年間一糸乱れぬ統制下で活動してきた密柑方の組株達は全員が新密柑方に参加したのではなく、一部は「旧密柑方」として残ったのである。
3)明治9年旧蜜柑方の機構改革
 新密柑方に参加しなかった旧密柑方の内部から、執行部役員への不満等が続出し、旧密柑方も機構を改革することとなった。同年11月、役員改選を行うとともに詳細な「密柑方規則」を作成して運営を始めた。
4)新旧蜜柑方の争い
 
  【蜜柑方騒動の記録】
(みかん資料館所蔵)
 新旧密柑方の仲は悪く、いわば犬猿の仲であり、東京においては新旧密柑方による密柑問屋、廻船問屋、仲買人を巡っての争奪戦が繰り広げられていた。結果は新密柑方が劣勢となり、そのため、新密柑方の中から脱退者が続出して新密柑方は窮地に追い込まれることとなった。
5)明治14年「有田郡蜜柑方会議」成立
 新密柑方の組合員脱退による運営への支障は勿論であるが、旧密柑方についても明治9年の機構改革によって運営が為されていたが、その運営についても不満とする者も出てきて、脱会して「新新組織」を設立しようとする者も現れてきた。
 そこで、何とかして出荷体制を有田郡一本に統合して天下の名産、有田ミカンにふさわしい販売組織にしようとする心ある人たちが出始めた。その音頭を取ったのは、行政機構の当時の有田郡長、鈴村三郎氏である。鈴村郡長は各地区の同憂の人たちを招集して出荷機構の郡一本化を提唱した。その提案は生産各地区より代議員を選出して、「密柑会議」を開き、万事会議にて事を進めるというものであった。出席者はこの構想に大いに共鳴し、明治14年10月「有田郡密柑方会議」が成立した。
6)明治17年に再び3組に分立
 「有田郡密柑方会議」は新旧の対立を解消し、生産者が一体となって有田ミカンを販売しようとする画期的な計画とされたが、実際に行動に移してみると、尚も運営方法に疑義を呈する者も出てきて統制が困難であった。
 その折り、和歌山県では農業者の同業組合準則を布告(明治17年)し、法的な組合設立を奨励した。そこで今度は統制のとれなくなった有田郡密柑方会議を解散して、「宮原組」「藤並組」「石垣組」の3つに分かれて法的組合が設立され、それぞれ事業を行うこととなった。
7)「3組」への対抗組織、「改良組」ができる
 県の指導もあって、認可組合としての3組がミカン販売を行ってきたが、なおかつその運営に反発する者達が現れ、それらが集まって「改良組」が組織された。改良組は段々に同志を集め、既成の3組に伯仲する勢いとなり、またもや改良組と既成3組との間で輸送、販売の面で激烈な競争、足の引っ張り合いが始まった。
8)紀州有田柑橘同業組合の設立
          ・・・農業協同組合への胎動

---農会法・重要物産同業組合法の制定---
 明治維新後から続くミカン生産者組合
の離合集散の中で当時の有田郡長の音頭取りで明治30年に同業組合設立の準備が始まった。明治32年に「農会法」が公布され、「有田郡農会」が設立された。しかし、この法律は「農業の指導・改良研究調査」が目的で「販売活動は出来ない」ことになっていた。そのため、有田郡農会においても有田郡の強固な販売組織のためには同業組合の設立が必要として設置を決意。明治37年に20名の同業組合発起人を選任して協議を尽くし、同年9月に創立総会を開いたが不成立。翌明治38年7月15日に第2回創立総会を開催し、農林大臣の認可を得て「紀州有田柑橘同業組合」を設立した(4)。同業組合は明治33年の「重要物産同業組合法」に基づく組合で農林大臣の認可による設立であった。有田の蜜柑農家たちは、密柑方解散後、それに代わる組織設立を試行錯誤したが、この組合は漸くにして、「密柑方」に代わる機関と言えた。
 明治38年10月21日に第一回臨時議員会を開催し正副組長を選出した。
      組 長  御前七郎右衛門 (保田村山田原)
副組長  上山 宋十郎 (鳥屋城村)
 矢船 傳 (田殿村)
 ここに、明治に入って40年近くを経て有田の柑橘栽培業者による共同販売組織が紆余曲折の末に郡民総意の安定した組合が誕生した。当時のミカン栽培者は3791人。内3448人(91%)が参加している。
 では設立時にはミカンがどのくらい栽培されていたかということであるが、組合設立の年の明治38年から同43年まで、6ヶ年における区域内14ヶ町村の栽培面積は次のとおりである。
  明治38年 1477町
  〃 39年 1509町
  〃 40年 1560町
  〃 41年 1609町
  〃 42年 1646町
  〃 43年 1694町  6年間での反別増加 217町。
 その後、大正6年に定款を改正し、昭和の代へと継承されていった。
9)産業組合
 前述の有田郡農会が中心となって設立した「同業組合」とは別に、明治33年3月に「産業組合法」が施行された。この法律では、「農会法」では規制された信用・購買・販売事業が可能であったが、これに基づく組合設立は以外と進まず、和歌山県において普及するのは昭和に入ってからであった。それは、有田においては「紀州有田柑橘同業組合」が活発に活動を行っていたため、産業組合設立の必要がなかったからであると言える。
 しかし、他府県町村では、産業組合が中心になって果実の販売事業を活発に行い、先発の同業組合との対立も生じていた。
10)農業会の発足・・・農業団体法の制定
 柑橘同業組合、農会、産業組合が明治の終わり頃から大正・昭和にかけて、それぞれの性格に基づいて、それぞれの角度からミカンの出荷と販売に貢献してきたのであるが、昭和15年以来、太平洋戦争の進行とともに、食料品の統制管理の必要から農業団体の統合が国策となり、昭和18年に「農業団体法が公布」され、多年の歴史と実績のある同業組合、農会、産業組合等の農業団体は「農業会」一本に統合され、昭和19年4月1日、全国一斉に発足した。
 『農業会』は戦時統制の一環として、青果物の配給並びに統制の権限と義務が与えられた。農民は青果物を定められた価格で、農業会を通じてでなければ売れない。しかし、間もなく戦争の深刻化、昭和20年8月15日の敗戦によって、焦土からの食料品は極度に不足し、人心の不安定、道義の頽廃を惹起し、「統制」とは名ばかりで、闇ルート・闇価格・担ぎ屋横行の時代となり、東京・大阪の中央市場への荷が入らなくなり、開店休業となってその機能を失った。こうして、鳴り物入りの『官製の農業会』はその使命を果たす間もなく無力化してしまった。

3.GHQによる戦後の民主化政策と
     農地改革、農業協同組合の設立
  昭和20年(1945年)8月14日、日本政府はアメリカを始めとする連合国軍の「ポツダム宣言」を無条件受諾、翌8月15日に昭和16年12月8日(1941年)に始まった太平洋戦争は日本の降伏で終戦となった。
 米のマッカーサーを総司令官とする「連合国最高司令官総司令部(GHQ)」によって日本は統治され、軍国主義を解体し、民主主義政策が推進されることとなった。
 戦前の日本において、軍国主義の温床とされたのは「地主制」の存在であった(5)
 地主制は戦前の日本の社会・経済制度の根幹をなすもので、地主と小作人の身分差別も生み、前近代的な性格を多分に持つものとされていた。
 従って、GHQは昭和20年12月9日に「農地改革」を指令(農民解放指令)する。
 内容は①地主制を解体し、小作農に土地を分与する。②小作農であったものが自立できるように、長期・低利の融資制度を創設する。農産物の価格を安定する手段をとる。農民への農業技術・知識普及のため、農業改良普及制度を実施する。③農民の経済的・文化的向上を期すため、『農業協同組合制度』を創設する、というものであった。
1)農地改革法による小作農の経済的自立
 戦前の日本の農家の大部分は貧しかった。それは一部の大地主と小作人との関係があったからである。小作人は地主に借地からの収量の半分から6割を納めなければならず、労働意欲が沸かなかった。
 終戦により、各国からの復員兵の増加と植民地からの食料流入が途絶した。そのため政府とGHQは一般農家の貧困からの救済とともに食糧増産が喫緊の課題となった。
 そこで昭和21年から、地主の農地保有限度(小作地、自作地合わせて北海道12町歩、都府県3町歩(9000坪))を越える小作地・自作地に対し地主からの国の土地買い上げが始まった。買い上げ価格は相場の6分の1程度で、それを同価格で小作人に払い下げた。
 当時、国の買い上げ面積は193万㌶で、この払い下げにより、全国で250万人の自作農家(小作人の取得地を創設農地と呼んだ)が誕生した。条件としては、宅地への転用禁止であった。
 農家の労働意欲向上とともに生産量も伸び、連れて農家収益も向上した。昭和30年頃から日本経済復興も軌道にのり、昭和31年7月、石橋内閣での経済企画庁「経済白書」に「もはや戦後ではない」と復興宣言がなされた。
 戦後の食糧不足が解消すると出生率(6)も上昇し、「宅地不足」が発生した。政府は農地について、宅地転用禁止をしているため、東京都内の市部では市が土地を買い上げ「公設住宅建設」を始めた。(昭和21年の小作農への払い下げ価格は2円前後であり、昭和31年での買い上げ価格は坪2200円と1100倍になっていた)。
 東京・大阪等大都市での宅地需要が急増したため、政府の土地買い上げが追いつかず、昭和34年(1959年)に農地の転用基準が改訂され、農家の資産運用が認められた。
 尚、参考までにGHQの他の諸政策を上げれば、日本の民主化の柱として、「財閥解体(三井・三菱・住友・安田)」、民法改正(家父長制廃止、夫婦平等、長子相続廃止)」、「新憲法公布(戦争放棄、天皇の人間宣言)」、「教育改革(小・中学校義務教育、男女共学)」、「労働改革(労働基準法、8時間労働制、男女同一労働同一賃金)」等を実施した。
 日本の民主化にとって、農業協同組合制度の創設が不可欠とのGHQの指摘により、「農業協同組合法の制定」準備が始まり、昭和22年7月に国会に提案され、11月公布、12月施行となった。新生農協の4原則として、①設立・地区・組合員の加入・脱退の自由、②農民の主体性の確立、③農業生産共同体の趣旨に基づく生産に関する事業の強化、④行政庁の監督権の制限、が盛り込まれた。
 昭和22年11月に農業協同組合法が公布されると同時に「農業協同組合法の制定に伴う農業団体の整理に関する法律」が公布され、「農業会」は翌23年の8月までに解散することになった。有田市内においては、当時旧町村単位に5つの農協組合があった。
 箕島信用購買販売利用組合(昭和11年設立)、椒(はじかみ)信用購買組合(大正4年11月設立)、保田信用組合(大正2年10月設立)、宮原信用組合(明治末に有志数名により設立、後村営組合となる)、市内最古の組合である糸我村購買組合(明治43年設立)の5組合である。これらの組合はそれぞれ、昭和18年の「農業団体法」によって「農業会」に移行していたが、「農業協同組合」に組織変更する。
2)有田柑橘農業協同組合、
  和歌山県果実農業協同組合連合会の設立
 戦時中、ミカン栽培は食糧増産のため栽培面積が減少、また、樹勢も弱り、土壌改良、改植の必要があった。そのため、ミカン栽培者からは「農協」のみに頼っても早急な成果は期待できないとして、果実専門の「農協」が必要との声が高かった。これについて和歌山県も果実専門の農協設立を奨励した。呼応して、昭和24年に県下で最初に有田郡で組合が設立された。「有田柑橘農業協同組合」であり、組合員数千人が加入。
 
  【和歌山県果実農業協同組合連合会】

 昭和26年10月1日に「和歌山県果実農業協同組合連合会」(昭和51年10月1日に青果連に名称変更)が設立された。「青果連」は「果実の販売及び生産指導のみ行う」農協連合会と規定され、県下200余の農協組合のうち、果樹産地の39組合が参加した。
 伊都、那賀、海草、日高、紀南と有田地方に支部が設置された。有田支部は、有田柑橘農業協同組合と表裏一体となって、有田地方の柑橘産業の振興、出荷販売の合理化と共同出荷への推進、市場の開拓と輸送対策について大きな役割を果たした。

3)農業協同組合の合併
 昭和22年12月、「農業協同組合法の施行」による全国の農業協同組合は設立以来、農民の社会的・経済的地位の向上のため大きな貢献をしてきたが、一般社会経済の急速な成長によって、従来の小規模組織の組合では農家の生活と経済の安定を図るには脆弱であった。折しも各地において、町村合併が進んでおり、農協においても拡大強化の声が高まっていた。
 政府において、昭和32年「農業協同組合整備特別措置法」を制定し、全国的に合併を推進することとなった。しかし、永年の地域ごとの事情があり、遅々として進まなかった。
 そのため、政府は昭和36年3月、「農業協同組合合併助成法」を公布し、5ヶ年の期限付きで合併組合に対し助成措置を設けた。
 有田市内の5農協もこの勧告に基づいて合併を決議して、全市一組合に統合するべく協議を重ねたが、箕島、初島、保田の三組合の同意は得たものの、糸我及び宮原の二組合とは合意に至らなかった。その理由は昭和32年からの農協合併の動きに合わせ、糸我農協の崎山省三グループでは、昭和38年6月から有田郡市24農協の大同合併の計画推進があり、有田市内のみの合併には反対であった。宮原農協もこれを支持し、全市一本化はならなかった。
 昭和40年4月、箕島、保田、初島の三組合は合併して「有田市農業協同組合」を設立(初代組合長初島農協久保常次郎、組合員2378人)した。一方、郡部の大同合併も調整がうまく行かず、三組合が脱落。宮原、糸我の両組合は吉備町地区の農協と合併して、昭和41年4月に「有田川農業協同組合」を設立(初代組合長糸我崎山省三、組合員1239人)し、本部を吉備町に置くこととなった。
4)農協CIの導入
  ・・・・コミュニケーションネーム、JAの採用
 昭和63年(1988年)の第18回全国農協大会で「21世紀を展望する農協の基本戦略」が決定され、「農協」が未来に向かって発展・成長するには、農協内部において、また対外的な戦略展開のためには「イメージチェンジ」が必要であり、CI(Corporate Identity)・・・・全国の「農協」が同一組織であるということの識別マーク作り、に取り組むこととなった。以来、全国農協の諸機関においてCIコンセプトについて検討の結果、『JA』(Japan Agricultural Cooperatives・・・・農業協同組合の略)が平成2年8月に採用され、「農協」「NOKYO」 の呼称はJA(ジェイエイ)となり、有田市農業協同組合は「JA有田市」となった。

4.JAの広域合併推進
    ・・・・和歌山県の合併目標は8JA
 JAの全国組織としては、主なものに全国農業協同組合中央会(JA全中)、全国農業協同組合連合会(JA全農)、農林中金(農林中央金庫)、全国共済農業協同組合連合会(JA全共連)があり、その下部組織として各府県にJA中央会(全国に47の県中央会)、JA県農(42の県経済連、既に6経済連を統合、12年度中に30前後の予定)、JA信連(46の県信連)が設置されている。JA県共済連はJA全共連に統合された。
 そして、全国市町村に信用(金融)、共済(保険)、経済(購買・販売)、営農指導を行っている『総合JA』が組織されている。平成11年12月1日現在での総合はJAは1544、組合員912万人であるが(7)、平成12年4月には広域合併により1411JAとなっている。
 21世紀での社会経済環境においては、農業生産と消費流通は大きな変革が予想され、市場における競争力の強化、事業コストの削減、高能率生産施設、新たな事業機能の発揮などが求められる。そのためには広域的な連携による体質改善強化が必要であり、昭和60年頃から全国的に広域合併の推進が始まった。
 和歌山県においては昭和62年1月に県下広域合併基本構想について理事会がもたれ、「県下一農協」を理想とするが、地域の実情を考慮するに、50JAを「郡市一本」、つまり、和歌山県8郡部の『8JA』とする構想が最適であると決定され、合併推進室を新設して取り組むこととなる。翌昭和63年11月、第19回和歌山県農業協同組合大会において、「農協合併等組織整備の促進」が決議され、県内8JA実現に向けスタートする。
 8JAとは①和歌山地区(加太・和歌山河西・和歌山北・和歌山東・和歌山市中央・雑賀・和歌山市農協の7JA)②海草・海南地区(紀伊美里・野上町・下津町・海南市農協の4JA)。③打田地区(那賀町・粉河町・打田町・岩出町・桃山町・貴志川町農協の6JA)④高野口地区(伊都・かつらぎ町・橋本市農協の3JA)。⑤御坊地区(御坊・紀伊美浜町・紀伊日高町・由良町・紀伊川辺町・中津村・美山村・龍神村・みなべ・和歌山いなみ・御坊市農協の11JA)。⑥田辺地区(紀南・白浜信用・紀伊富田、上富田・中辺路・日置川・すさみ町・串本町・田辺市農協の9JA)。⑦新宮地区(新宮・那智勝浦町・太地町・南紀古座農協の4JA)。
 
JAありだ  
 それに⑧有田地区(有田川・西有田・南広・有田中央・東有田・有田市農協の6JA)であり、有田地区については、6JAが平成11年10月に『JAありだ(ありだ農業協同組合)』(組合員数18,691名、職員数423名、貯金高1,663億円)として合併した。
 今後も単位総合JAの広域合併は進む(奈良県は全県一本)が、JAの監査や企画機能を担う全国農業協同組合中央会(JA全中)も傘下の都道府県中央会を統合する方針を固めるとともに、中央会組織の簡素化をはかり、栽培技術や経営指導などは生産現場に密着している単位農協に移管する方向で進んでいる(平成12年4月21日朝日新聞)。
 近年、若手・大規模農家を中心に農協離れの傾向があることから、農水省においても、「農協の事業・組織に関する検討会」を開き、「経済事業」、「信用事業」、「組織の見直し」の3点について、抜本的な改革、農協法改正など法整備を視野に入れた協議を行っている。

5.有田ミカンの関連施設と
           輸送手段の変遷
1)有田郡田殿村に園芸試験場設置
 
【和歌山県果樹園芸試験場全景(吉備町大谷)】  
 明治38年8月に「紀州有田柑橘同業組合」が設立されてからは以前のような内紛もなく、組合活動は順調に動き出し、組合としての課題は品種改良や病害虫予防・駆除、肥料・土壌改良、さらに新品種開発であった。そこで組合は郡農会(農会とは明治32年公布の農会法に基づく農業の指導組織でミカンの販売はできない)と対策を研究し、組合が全面協力の下に郡農会が園芸試験場を設置することとなり、田殿村(現吉備町)大谷に大正2年に開設となった。(昭和36年に吉備町奥751-1番地の現在地へ移転)
 翌3年、試験場の土地建物、機器一切を県へ寄付して、4月1日から県営に昇格し、「和歌山県立農事試験場園芸部」と改称されて有田郡におけるミカン栽培の近代化、生産増強に大きな貢献をすることとなった。(8)
 初代試験場長は大正2年に有田郡農会に乞われて着任した、農学士朝倉金彦氏である。
 朝倉氏は日本の柑橘界に近代科学の栽培技術を普及して、その発達に生涯を捧げ、その貢献はまことに大きく「柑橘の父」として、試験場の背後ミカン園に頌徳碑が建設されている。朝倉氏は各地区での園芸講習会、老朽園の改植、せん定技術の実地指導、薬剤散布、配合肥料の奨励等に大きな成果を上げるとともに、技術指導者養成に尽力し、26年間場長を務め、生産者の信望を集め、有田地方に不滅の功績を残している。
 2)紀勢西線の開通による輸送の迅速化
 
【帆前船】  
 ミカンの輸送手段は江戸初期の滝川原藤兵衛、紀伊国屋文左衛門の時代から帆前船、発動機船、汽船と近代化しながら発展してきたが、汽車の運行によって、天候に左右される海上輸送から計画的に輸送できる陸上輸送に大きく変化する事となった。
 大正8年、原内閣の第41議会で、和歌山県民の熱望であった紀勢鉄道敷設の件が満場一致で可決されて、第一期工事として和歌山~箕島間の工事が進められ、5ヶ年の歳月を費やして、大正13年2月18日箕島駅が開通した。翌14年12月11日紀伊宮原駅、15年8月8日藤並駅、昭和2年8月14日湯浅駅と有田郡の各駅が相次いで開通した。(田辺までの開通は昭和7年)
 長い間待ち焦がれた鉄道が開通した喜びは大変なもので、乗車しないまでも有田の遠くの村々から毎日見学者が押し寄せる騒ぎであった。しかし、駅が出来、荷物が人と一緒に運べるようになって、一番恩恵を受けたのはミカン業者であった。それまでは有田川を平田舟で下って、一旦北湊の天甫に荷揚げし、チャーター汽船が満載量になってから販売地へ輸送した。それも、天候によって出航が送れることもあり、積み荷の損傷もあった。
 鉄道によって、思うときに市場へ出荷できるようになり、汽船に比べ運賃が安く、迅速に目的地に着荷して商機を失することもない。鉄道による有形無形の利益は測り知れないものがあった。
3)トラック輸送
 
  【馬車での輸送(昭和初期)】
 鉄道の開通により、船舶や牛馬車輸送が衰退したが、昭和20年の敗戦後、各農家においては、大八車やリヤカーなどに代わり、荷物運搬車が普及し、貨物自動車による輸送が多くなっていく。昭和25年には、京阪神方面へのミカン輸送が全輸送料の16%、昭和43年には近畿一円にトラック輸送が広まり全輸送量の半分、昭和46年の有田農協の出荷計画では75%をなっている。(9)
 トラック便の増加とともに、鉄道輸送は東京、北海道への遠距離輸送が中心となる。
 4)輸送容器の変遷
  ミカンの輸送容器は時代とともに変遷する。江戸時代の有田ミカン初出荷から現在までの容器変遷は次のとおりである。
①竹籠
 竹籠は江戸時代から明治の初期まで使われた。江戸向けは15㎏、関西向けは7.5㎏で、荷造りは蓋の部分は石菖(せきしょう)という草で覆い、縄で括った。石菖はミカンを冷やして腐敗を防ぐ役をしたと言われている。(10) 
  【竹籠】
②木箱
【木箱】 【選果・箱詰め(昭和初期)】 
 江戸末期から明治にかけて木箱が輸送に使われるようになる。木箱は竹籠に比べて、輸送に便利、かつミカンを傷つけない、腐敗を防ぐ、抜荷を防ぐという長所をもち、加えて製材業の発達によって、急速に木箱に切り替わっていった。木箱は明治20年頃まで「竹釘」が使用されていた。それ以降は「鉄釘」が使われるようになる。木箱の大きさは地域によって多少の違いはあるが、大きく分けると、石油箱(26㎏)、半石(半石油箱14.3㎏)、中化粧箱(7.5㎏)、平化粧箱(4.9㎏)、小箱(4.9㎏)となる。
③ダンボール箱
 昭和30年頃、ダンボール容器によるミカンの出荷が、九州、愛媛で始まった。木箱はミカンを一個一個丁寧に詰め、釘打ち、縄かけと手間がかかった。ミカンの生産量増加とともに、共同選果場では、目方分だけダンボールに入れて、上蓋をホッチキスで止めて出荷する方が能率が上がった。また、労務費の大きな削減でもあった。有田ミカンは高級イメージがあり、ダンボールは高級感を損なうとして、和歌山での利用は昭和33年頃からで、一般農家にも普及したのは昭和36年~40年ぐらいである。現在、主流は10㎏であるが、他に15㎏、7.5㎏、5㎏、2.5㎏の箱が使われている。

6.海上輸送手段としての和船
     の発達史とみかんへの貢献
1)和船の変遷
 日本は四方が海のため、交通手段としての船の建造技術は古くから進んでいた。勿論船にも沿岸用として、港を廻る船の場合は比較的構造が簡単でよいが、外洋に出て長期間の航海を必要とする外洋船の場合は建造に優れた技術と資材、それに航海技術が必要であった。
 日本の歴史上では弥生時代には中国大陸との交通があり、時代が進み遣隋使、遣唐使が大陸へ渡航するようになると造船技術も格段に進歩する。遣唐使は第一次(西暦630年)から第15次(838年)までであるが、初期の遣唐使は50~60人乗り(30t前後)であったが、後期では150人ぐらい乗っており、食料、水、貢ぎ物等を考えると、100~150t程度の船であったろうと考えられている(11)。積載量150t、全長30㍍、最大幅8.5㍍、喫水2.8㍍と石井氏は推測している。この大きさは後の江戸時代の1000石船と同じ大きさであり、9世紀においても日本の造船技術は相当なものであったと評価されている。
 山・川の多い日本国内での大量輸送は船便利用が第一であった。諸藩での米、物資の輸送に船が建造されたが、大体は200石(30t)~300石(45t)積みの船が多かったようである。
 室町時代に入ると荘園年貢輸送に加えて一般商品の動きも活発化し、「廻船」と呼ばれる商品を売り廻る商船の進出があった。文安2年(1445年)の「兵庫県関入船納帳」によると同年中の通関船の総計は1903艘で、その内の83%は200~400石であり、400~1000石の大型船が45艘、1000石積以上が6艘あったと記録されている。(12)
 鎌倉時代になると、大型船の造船技術が一段と進み、南北朝時代を経て、室町になり、明国との通商が応永8年(1401年)に始まるが、11回の遣明船に使われた船は1500石(225t)以上の大型船で風波にも強い頑健な造りになっていた。
 戦国時代から安土・桃山時代になるとアジア諸国との交易で利益を得ようとする諸藩が続出し、勢い船も外洋の長期航海に耐えられる大型化が進んだ。「朱印船貿易」(豊臣秀吉の時代から徳川家康政権下の海外との交易許可船)が盛んになり、東南アジアとの交易には4000~5000石(600~700t)の大型船が使用され、アジア諸国との交易に活躍している(13)
2)江戸時代における海運の発達
 江戸時代は、一般的に幕藩体制と呼ばれている。その意味は政治的に士農工商の身分制を確立し、検地を通して、諸藩の生産物を掌握した体制であり、経済的には武士が農民を自給自足的な経済生活に縛り付け、農民からは年貢米を徴収し、これを売却して貨幣に換えて、その貨幣で必要な生活必需品を商工業者から購入するという関係の上に成り立っていた。
 従って、幕府及び各藩主は人口の多いところで、つまり大坂や江戸で年貢米の売却をして貨幣に交換する必要があった。となると当然に大阪、江戸への米の輸送の必要が生じ、各藩は海運を管理することが経済生活の課題でもあった。
 そのため、各藩ごとに航路を設定するにあたって、風待ち港、宿泊港、航行日数等がまちまちであり、日本海と瀬戸内海、瀬戸内海から江戸へ結ぶ「海の道」の航路一本化が大きな課題となっていた。しかし、それが確立するまでにはかなりの努力と年月を要したようである。
 海の道一本化に成功したのが、幕命を受けて活動した河村瑞賢(当時の紀州藩、現三重県南島町出身)である(14)。寛文11年(1671年)に河村はまず最初に陸奥から常陸、銚子、相模、下田を結んで江戸に米を廻走するルートを確立した。これが後世に続く「東廻り航路」である。
 翌寛文12年に河村は出羽の国(山形県)から佐渡、能登、下関を通り、瀬戸内海を経て大阪、和歌山に至る航路を開発した。これが「西廻り航路」である。この東廻り航路・西廻り航路の完結により、日本列島の商品流通が一段と促進され、風待ち港は船乗り、商人達で賑わう港町、物流基地、市場、慰安所として発展していった。やがて、全国60余州の海辺をほとんど一周するほどに海運が盛んになり、航海技術、造船技術、操船技術、航行速度、着荷積み荷の捌き処理等も一段の進歩を遂げることとなった。
 近世の大阪は「天下の台所」として経済力を強めていたのは、各藩の蔵屋敷が建ち並び、蔵米が集中していたからである。勢い大阪商人が金融力を握ることとなり、大阪が江戸への物資供給基地としての役割を担った。米を中心に木綿、油、醤油、紙、番傘から下駄に至るまで全ての日常物資が大阪から江戸へ問屋の手を経て送られた。大阪~江戸間の海運は江戸時代の「基幹主要航路」としての重要性を持っていた。勿論、このルート便を有田ミカンも利用したことは当然である。
3)菱垣(ひがき)廻船・樽廻船の出現
 寛文11年(1671年)から12年(1672年)にかけて紀州藩の河村瑞賢によって、東廻り航路・西廻り航路が開発されたが、大阪~江戸間においては元和5年(1619年)に泉州(大阪府)堺の商人が紀州富田浦の250石積廻船を借り受け、大阪から木綿・油・酒・酢・湯浅醤油などの日常用品を積み込んで江戸に廻走した。これが「菱垣廻船」の始まりである。
 この廻船による成功により、江戸への輸送商人(廻船問屋)が次第に増えていく。廻船利用によるミカンの輸送を思い立ったのが寛永11年(1634年)の有田郡宮原組滝川原村(現有田市宮原町)の滝川原藤兵衛である。
【滝川原藤兵衛は小舟から大船へ
蜜柑籠を積み替え、江戸に運んだ。】
(紀伊名所図会後編より)
 大阪から江戸へ送られる物資の中でとくに酒は貴重品であった。人口の多い江戸での酒の需要が増えるにつれ、菱垣廻船での混載では捌ききれないとして、酒樽専用の廻船が運行されるようになった。これが「樽廻船」である。菱垣廻船も樽廻船も当初は200石から400石積のものであった(鎖国政策により、江戸初期では大型船の建造が禁止されていた)。近世中期以降には500石船クラスの弁財船が主流となるが幕末には1500石から1900石積みにまで大型化している。元禄期には江戸~大阪間が1ヶ月程度要したのが幕末には1週間から10日前後にスピードアップされ、明治に入っての鉄道開通まで輸送の主力となり、その貢献は大きかった。
 尚、当時の主要航路である江戸~上方(大阪)間を結ぶ菱垣廻船・樽廻船のほかに18世紀初頭以降、西廻り航路を利用する廻船の活躍もめざましかった。
 蝦夷地(函館・江差・松前)でニシン、数の子、昆布、干しイワシなどを買い込み、奥羽・北陸・能登・隠岐を通って瀬戸内海に入り、上方で荷を売り捌き、上方の物資を買い込み、同ルートで蝦夷に行く廻船があった。これは「北前船」と呼ばれた。
4)紀伊国屋文左衛門の乗った船は何万船か?
 
  【紀伊国屋文左衛門
 有田ミカンを滝川原藤兵衛が江戸に送ってから50年、貞享2年(1685年)11月に有田生まれの快男児、紀伊国屋文左衛門が嵐の中の熊野灘、遠州灘を不眠不休で乗り切って江戸に行き、ミカンで万両の大金を儲けたと伝承されている。当時の廻船は精々200から300石であり、江戸ではミカン不足で高値に売れ、当時の相場ミカン2籠(30㎏)約1両にプレミアがついたとして、1500から2000両の売り上げが妥当である。そこから、船賃、乗組員、仕入れ代を差し引いても、一般庶民には縁遠い大金が紀文の手元に残ったことは間違いない。紀文はそれを元手に江戸深川で材木商を開業し、「紀文大尽」と称せられる一大豪商になった。その活躍ぶりは講談、芝居、書本で語り継がれているところである。
 幕府は鎖国政策をとっていたが、各藩の密貿易を取り締まるため、寛永12年(1635年)から寛文期(1661~1673年)まで、500石以上の船の没収と建造禁止を行ったが、之によって造船技術は長らく衰微退縮した。(15)
 その後禁止令緩和とともに大型船建造が始まるが、紀文当時に1000石以上の船の手配は困難であったと思われる。
 
【弁財船】
(みかん資料館所蔵)
 
 尚、北前船(江戸時代後期に大阪と北海道を結ぶ商船)として、高田屋嘉兵衛(現兵庫県津名郡五色町出身)が寛政8年(1796年)に1500石船(225t)を建造しているが、その建造費は当時で2000両(現在で2億~2億5千万円?)とされている(16)。現在、弁財船と呼ばれた形式の「菱垣廻船」は一隻も残っていないことから、大阪市港湾局と(社)大阪振興協会が当時の材料、工法により、実物大の千石船の復元を計画。全国から部材と船大工を集めて平成11年3月に約10億円をかけて復元し、平成11年7月に大阪湾で試験航行のあと、現在は大阪市住之江区南港北2丁目の「なにわの海の時空館」に展示されている。この千石船(全長約30m、幅7.4m、積載150t)は国立国会図書館所蔵の文化期(1804~1817年)の千石船の図面を忠実に復元したものである。

参考文献
 本論文をまとめるにあたって参考にした文献は次のとおりである。
引用させて頂いたものは直接本文中や脚注にその旨記したが、直接引用しないまでも、先達の多方面からの研究が大変参考になった文献も多く、ここに記載し、ご労苦に敬意を表し感謝いたします。
有田市誌、昭和49年7月、有田市誌編集委員会発行。
和歌山県有田郡誌、大正4年5月、和歌山県有田郡役所発行。
和歌山のかんきつ、昭和54年3月、和歌山柑橘400年記念事業委員会発行
和歌山のミカン、昭和43年、毎日新聞社発行。
明日の農協、平成4年9月、武内哲夫・大田原昭共著、農産漁村文化協会発行。
農業協同組合論、平成10年8月、全国農業協同組合中央会編、家の光協会発行。
図説和船史話、昭和58年7月、石井謙治著、至誠堂発行。
紀州有田みかんの起源と発達史、平成11年11月、
御前明良著、経済理論292号、和歌山大学経済学会発行。
全国のみかん栽培史と江戸時代の有田みかんの流通、
平成12年3月、御前明良著、経済理論294号、和歌山大学経済学会発行。
10 紀文、春秋居士著、昭和44年3月、金桜堂発行。
11 実伝紀伊国屋文左衛門、昭和14年4月、上山勘太郎著発行。
12 鎖国と海商、柚木学著、毎日新聞社発行「人物海の日本史」に収録。
13 船と航海の歴史、石井謙治著、毎日新聞社発行「人物海の日本史」に収録。
14 農協CIに関する説明・討議資料、平成2年8月、全国農業協同組合中央会。
15 海の大日本史、明治36年、谷信次著論文。
16 千石積級菱垣廻船の復元建造書、平成12年8月、なにわの海の時空間所蔵。
17 国史大事典、昭和59年2月、国史大事典編集委員会、吉川弘文館発行。

脚注一覧
(1) 本論編集に当たり、ご教示いただきました和歌山大学経済学部上野皓司教授、並びに資料提供を頂きました方々に対し、ご協力を心から御礼申し上げます。
(2) 有田市誌 p.711。
(3) 浜口梧陵は文政3年(1820年)6月に有田郡広村(現広川町に生まれる。安政元年(1854年)11月5日の大地震の時、大津波を予見し、高台にある自分の田の稲束に火をつけて多くの村人を救う。戦前の小学校教科書に「稲むらの火」として紹介される。後、耐久社(耐久高校の前身)を設立。和歌山藩勘定奉行。有田郡民政局長。明治12年初代和歌山県議会議長を務める。
(4) 有田市誌 p.818。
(5) 農業協同組合論 p.122
(6) 出生率は昭和22年268万人(一人の女性が生涯に生む子供の数を示す合計特殊出生率は4.54),
昭和25年234万人(3.65)、昭和30年173万人(2.37)、昭和40年182万人(2.14)、昭和50年190万人(1.91)、昭和60年143万人(1.76)、平成11年117万人(1.34)。
(7) JA全中「JAグループの組織と活動資料」。
(8) 現在は和歌山県果樹園芸試験場。
(9) 有田市誌 p.826。
(10) 有田市誌 p.830。
(11) 図説和船史話。
(12) 図説和船史話。
(13) 図説和船史話。
(14) 河村瑞賢は紀州藩伊勢国度会郡東宮村(現三重県渡会郡南島町)に元和4年(1618)に生まれる。海運・治水の功労者。深川にて材木商を営む。
(15) 海の大日本史。
(16) 兵庫県津名郡五色町高田屋嘉兵衛顕彰会調べ。


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