有田みかんデータベース

紀州有田みかんの起源と発達史
The Origin and the Development-Process of
"Kishu Arida Mikan(Arida Mandarin)"
御前 明良
Misaki, Akira
ABSTRACT
 The history of "Arida Mikan(Arida Mandarin)" includes interesting anecdotes concerning origins and
development-processes.The trading of Arida Mikan brought the thriving of Arida district and the regional growth.
Arida mikan has a history of several hundred years and always maintains Arida economy. The purpose of this
research is to pursue the real history of Arida Mikan and to consider the contribution to Arida society.
  今に遺る俗謡で有名となった「紀伊国屋文左衛門」そして紀州有田みかん・・・。江戸時代から“みかん”といえば紀州の代名詞であり、その産地は“有田”。今、全国36府県で栽培され、私たちの生活に最も古くから親しまれている果物「みかん」。
 しかし、このみかんも私たちが生まれる遙か昔から既に存在しているため、あまりそのルーツや今までにいたる先人の苦労等は語られない。紐解けば、みかん栽培には数百年の歴史があり、みかんは偉大な先人たちの汗の結晶でもある。そして、今又健康食品として世界的にも注目されている。
 そこで今回、「日本一の蜜柑どこ 有田」を標榜する和歌山県有田地方の産業と地域特性を調査研究し、とくに特産品のみかんについて、みかんがどのようにして有田で生まれ、全国に広まったか、その歴史と発達の経緯を考察した(1)。 
【 “沖の暗いのに 白帆が見える
  あれは紀の国 みかん船” 石碑 】

「経済理論」292号、1999年11月、和歌山大学発行、p.97~p.118に掲載
*:元紀州有田商工会議所
  元和歌山大学経済学部非常勤講師

1.はじめに
 今、日本、世界には数百種類ほどのみかん科の果樹つまり柑橘があるという。その中でも日本人に一番身近で親しみのあるのが‘みかん’の愛称で通用している「温州みかん」である。そして、その本場とされているのが和歌山県の有田であり、「有田みかん」である。
 みかんが市場価値をもってから400年余りが経過し、有田地方の農業といえば「みかん栽培」が大宗を占め、天下に冠たる特産品となっている。400年の歴史の間では品種改良等があったとはいえ今も変わらぬ消費需要があることは、日本の産業史でも特異な存在であろう。
 さて、そのみかんは、’98年から新たな脚光を浴びている。それは、「健康食品」であることが再認識されたからである。「みかん」にはビタミンCが豊富であり、体内の浄化を進め、活力源となるペクチンやクエン酸が多く含まれる。更にカロチン、カリウム、カルシウム、リン、糖質、蛋白質も含有され、健康保持に大変良い果物である。
 そのみかんが更に世界的に脚光を浴びることとなった。’98年5月にみかん類の成分研究をしていた農林水産省果樹試験場かんきつ部が「温州みかんの果肉にはガン抑制物質が含まれる」というニュースを発表したからである。温州みかんの果肉に含まれる色素「ベータ(β)・クリプトキサンチン」にガンを抑制する作用があることを発見したのである。その物質の含有量は輸入オレンジの100倍という。そのことから、みかんを一日2~3個食べることによってガンの予防効果が期待できるとのことである(2)
 アメリカでは最近、オレンジに代わり日本の温州みかんが消費を伸ばしている。みかんは大きさが手頃、ナイフ無しでテレビを見ながらでも手を汚さずに食べられる。そして、ガン抑制の効果があるということで・・・。

2.みかんのルーツ
 柑橘類の原生地はインド、ビルマ、インドシナ半島、中国、日本まで広域にわたるが、中国では紀元前1000年前後、周の国の「詩経」に「柚(ユズ)」の記述があり、また紀元前1世紀の「史記」の中に「棗(ナツメ)」が産業として栽培されていたとある。 
 日本古来の原生果樹は「橘」と沖縄に原生する「シイクワシヤー」であると確認されている。このことは、西暦297年、中国晋の人、陳寿が書いた「魏志倭人伝」に日本では「はじかみ (ショウガ)、橘、胡麻、茗荷が自生しているのにその滋味を知らず」つまり、食に用いることを知らないと記されている(3)
 田道間守(タジマモリ)の“橘”導入伝説は景行天皇(西暦71年即位)の時代であるが、それ以前の神代に「橘」の存する記述がある。それは記・記すなわち、古事記神代記上巻、又日本書記巻之一である(4)
 さて、日本における柑橘栽培の起源は古く、有田地方においても柑橘栽培の発展を歴史的に述べるとなると、神話時代に遡らないといけないようである。
(1)神話時代の柑橘伝来・・・田道間守の伝説・・・橘本神社・・・八代みかん
【田道間守公肖像】
 日本書紀(720年編纂)に11代垂仁天皇の御代(西暦61年頃)に、新羅国(朝鮮シラギ)から帰化した子孫で外国通の但馬の国出石の住人、田道間守は病気静養の天皇の勅命により、遥か南方の常世国(中国大陸南岸地帯?)に旅立った。
 それは、その国に「非時香菓(トキジクノカグノコノミ)」という果物が年中実っており、それを食べると延命長寿の効果があるということで、その果物を採りに行くこととなったのである。
 以来苦節10年。田道間守は南方の海上に常世国を探し求め、ついに香菓「橘」を得て帰国する。
 しかし、 都に着いた時は、出発後10年を経過していたので、帝は崩御されていた。田道間守は帝の存命中に使命を果たせなかったことを残念に思い、御陵に「橘入手」の報告のあと、「香菓」を手に入れた「常世の国」の気候風土に似ている土地を探し求め、熊野街道沿いの下津町橘本(旧海草郡加茂村)に橘を植えた。
【 橘 】 【橘(橘本神社内)】

【橘本神社本殿】
 田道間守は死後、ここに祀られて「橘本神社」となる。 田道間守の植えた「橘」が紀州蜜柑の始まりであるとして、田道間守は”蜜柑の始祖”として今も崇拝されている。橘本神社では例年、10月10日を「みかん祭り」として蜜柑の関係者が集まり、お祭りをする。また、昔は「果物」を「菓子」といった事から全国の製菓業者がお詣りするようになり、神社では毎年4月3日に「菓子集り」を開催、当日は菓子関係者、柑橘業者が集まって賑わう(5)

 さて、伝説というのは、全国に似たような話が多いのであるが、和歌山の蜜柑栽培史に大きな影響の出てくる熊本県八代市のみかん伝来を調べてみると、八代においても「田道間守伝説」がある。
 前段の経緯は和歌山と同じであるが、田道間守は垂仁天皇の崩御を聞き、その皇子、景行天皇(西暦71年即位)に苦労して手に入れた橘を献上しようと、当時都から御征西中の天皇をはるばる肥後の国まで訪ね、 高田(八代市こうだ)付近でようやく巡り会って、「橘」を献上後自決した。
 景行天皇はこれを哀れに思い、高田の地に田道間守が苦労の末に手に入れた「橘」を植えられた。この橘が後年、有田市糸我の伊藤孫右衛門が手にする「八代高田みかん(小ミカン)」であるとされている(6)
(2)田道間守の持ち帰った「橘」の正体は?
【 橙 】
 橘本神社に植えられた「橘」は、果たしてどんな蜜柑だったのか。イ)日本の原生であるとされている橘、ロ)紀州蜜柑といわれる中国原産の小ミカン、ハ)漢方薬にも使うダイダイである、との諸説がある。
 「橘」は本稿の「2,みかんのルーツ」の頃でも述べた如く、日本の数少ない古来の原生橘であり、九州から四国、紀伊半島に自生している。橘であれば、田道間守が10年の歳月をかけてまで探す必要がなかったのではないか。有田の蜜柑が食に供せられるための土産ものとなった記録は、享禄2年(1529年)である(7)
 田道間守が景行天皇に橘を献上したのは西暦71年のことであり、紀州蜜柑といわれる小ミカンであれば、1400年余りも世に出なかったのは不思議である。ということから、今定説になりつつあるのが「橙」説である(8)
 この説を提唱しているのは、元台北帝国大学教授から大阪府立大学農学部で活躍した柑橘の研究家田中長三郎博士である。田中博士は垂仁天皇は御病気であった。永命長寿の果物を探していた。
 日本と朝鮮・中国との交流は秦国(紀元前3世紀~)、漢国の時代からあった。朝鮮半島を通じて中国のいろいろな情報が日本に入ってきており、中国では不老長寿の珍しい香菓があるとのニュースが天皇の耳にも入っていた。中国では古くから漢方薬の技術が進んでおり、香気の高い橙は漢方薬の原料であり、発汗・強壮・消化・食欲増進剤の一種であり不老長寿として使われていた。よって田道間守の持ち帰った橘は「ダイダイ」であろうという推論である(9)
(3)八代にもたらされた橘の正体は
 紀州蜜柑は肥後八代蜜柑との関連を抜きには語れない。同じように田道間守伝説もある。田道間守によって和歌山へ伝来した橘は「ダイダイ」であったとする。
 では八代高田(こうだ)にもたらされたのはどんな柑橘であったのであろうか。とにかく、日本にはなかった柑橘が中国には多種多様にあり、紀元前からの中国大陸との交流により、中国文化とともに果樹類も日本に伝来したであろう。その中にいろいろな柑橘もあったものと思われる。
 日本も国家の形態が整うと遣隋使・遣唐使(7世紀から9世紀末)による交流が盛んに行われるようになり、更に種々の柑橘が持ち込まれたであろう。
 しかし、果たしてその時代に「接ぎ木」の技術があったのであろうか。未だであれば、柑橘はタネによる増殖は無理であるから、「挿し木」「株分け」「取り木」によったのであろうか。
 朝鮮半島との交流の地の利は九州の西部にあり、遣隋使・遣唐使の発着場も同地方である。みかん栽培について、今、大方の意見としては、柑橘導入、育成失敗を繰り返しながらも“ある規模で栽培”されだしたのは、”肥後の国八代郡高田村(現八代市)”であったと考えられている。その品種は中国の浙江省から伝来した「小ミカン」である。昭和12年6月に、樹齢800年のコミカンの古木が大分県津久見市青江にて現認され、支部大臣から天然記念物に指定されている。また、鹿児島県肝属郡にも同様の古木があったという(10)
 ということから推測すると、小ミカンは12~13世紀には肥後八代を中心に鹿児島・大分等で栽培が広まったと思われる。 
(4)八代への橘伝来・・・もう一説
 神功(じんぐう)皇后が三韓(朝鮮三韓の国)征伐の帰途、朝鮮より橘を持ち帰り、これを肥後八代に植えたのが高田みかんの始めである。その後繁茂し、三韓よりきたので「みかん」と名付け、肥後国司より年々朝廷に献上したとの説もある(11)
 日本の柑橘は自生説あり、伝来説あり諸説紛々である。しかし、何せ古代伝説のことであれば、確証する資料もなく、その淵源を極めるには深すぎると言えよう。

3.有田みかんの起源を探る
 
  【長実金柑】
 永い歴史のある有田みかんについては色々な紹介本が世に出ている。しかし、田道間守が橘本神社に植えた蜜柑の始めとする「トキジクノカグノコノミ」についてはあまり書かれていないが橘本神社元宮司の前山虎之助氏が自著で田道間守についての柑橘論を発表している(12)。それによると、後述する有田郡糸我の蜜柑「橘」は加茂橘本から移植したものであり、田道間守の植えた橘は自生の橘と種類が違う「九年母温州蜜柑」のようなもので、橘本地区を中心に近郷の村々にも栽培されていた。紀州蜜柑の元祖の地は加茂村の橘本であると述べている。
 田道間守の物語は西暦1世紀頃の話である。その後の和歌山の蜜柑についての記録は有田市の「糸我社由緒書」に永享年間(1429~1440年)に「有田郡糸我庄中番村に1本の自生の橘あり」という記録まで1400年近く空白である。しかし、この間、日本の柑橘史では、時代とともに中国大陸から幾種かの柑橘が伝来している。  8世紀初めには唐の国からコウジ(柑子)(続日本紀)、鎌倉・室町時代に入るとクネンボ(九年母)、小ミカン、キンカン等である。さて、紀州蜜柑こと有田蜜柑の起源については2説ある。有田における「自生説」と「肥後八代からの移植説」である。これを諸資料から考察したい。
(1)有田市糸我町での自生説
 
  【糸我稲荷神社】
イ、糸我社由緒書・・・・有田みかんの始まりは15世紀
 有田市の蜜柑の歴史を紹介するには欠かせない資料がある。それは文化7年(1810年)に林周防(当時の宮司)によって書かれた「糸我稲荷神社」の社伝を記した「糸我社由緒書」である。これによると、糸我稲荷神社の創建は古く、神社は熊野三山への参拝道(現有田市糸我の熊野古道)にあり、上皇・貴族が熊野への参拝の途次「奉幣」されたとあり、創建は西暦652年で、世に名高い京都伏見稲荷大社の創建711年より60年古く、わが国最古の稲荷社として知られる(13)。由緒書には室町時代初期《永享年中(1429年~1440年)に糸我の庄中番村の地に橘一樹自然に生え出て、年々実を結ぶ、その味蜜のごとし、よって蜜柑と号す》と記述されている。その後、室町時代後期「大永年中(1521年~1527年)に「接ぎ木」が始まり(1511年の文永年間に始まったとの説もあるが)、天文21年(1552年)に糸我社に供う」とある。又、弘冶元年(1555年)の冬には其の年の初穂を伊勢神宮に奉献されたと記されている。
ロ、紀伊続風土記・巻之九十五 物産第三果部の項
 「紀伊続風土記」は紀州藩公の命により、漢文学者仁井田好古以下多くの藩の碩学者たちが、天保年間(1834年~1843年)に十数年の歳月をかけて、深く探究して編纂し、藩公への報告書として提出したものであり、信頼のできる名著である。
 紀伊続風土記・物産の巻には蜜柑の由来について、前述の「糸我社由緒書」を再調査した様子が見られる。
[紀伊続風土記](平成2年復刻、臨川書店発行)では有田蜜柑の由来について、『古老の傳に永享年中在田郡糸我の庄中番村楯岩の麓神田の峯に柑一樹自然に生じ、年々実を結ぶ。文正年中(1466年)にこの種を山田(山畑?)に植え、大永年中に接ぎ木して近郷に栽え、天正年中(1573年~1591年)に糸我・宮原二庄に分ち栽えしにより、漸々諸庄に栽植するといふ。今は郡中平田(水田)の外乳柑栽えざるの地なく、遂に在田蜜柑の名海内に顕れてその利益大なること他郡に比すべからず。ー中略ー、霜後萬顆色を染め、紅黄枝天を射て眞に奇観なり』と記されている。また「天保年間には海部郡仁義・濱中(現下津町)、名草郡等でも蜜柑が栽培されていたが、核も多く味淡にして甘からず、これ本和泉種にて下品なり」と記され、天保年間では既に有田蜜柑は他産地より評判がよく、収益のあがる果実であった様子が窺える(14)
 「紀伊続風土記」では当時(天保時代)栽培されていた紀州の柑橘は多種を数えている。「和歌山の物産・果部「橘」の項では、タチボ(タチバナ)、黄橘、緑橘、凍橘、早黄橘(ワセコウジ)、大柑子、唐蜜柑、温州橘、李夫人、朱橘(ベニカン)等であり、これらの栽培地は在田郡に多く産す。」と記されている。その他金柑、柚、橙、クネンボ、カブス、ウチムラサキ、ザボン等も在田、尾鷲、若山に多かったとある。
 糸我の庄中番に生えた《柑橘》が、「紀伊続続風土記」の中で「味甘美に食して滓を留めず核少なくして中に漸く一、二核の物あり、実に柑中の冠たり」と記述されていることを推察すると、在来の「橘からの変種小ミカン」である可能性もある。あるいは、前述の橘本神社元宮司前山虎之助氏の言う「九年母的な温州蜜柑」が加茂村橘本から移植されたものなのであろうか。このことについて、「紀州有田蜜柑発達史」では、12~13世紀には肥後八代では小ミカンが栽培されている様子があり、鳥獣によって種子が同地に移されたことも考えられる。それが実生によって、食用に適した小ミカン的な蜜柑であったと推測できると記している(15)。以上の諸資料からの推論では、有田蜜柑の発端というべき柑橘は15世紀に始まったといえよう。
(2)糸我町への移植説
イ、「紀州蜜柑傳来記」・・伊藤孫右衛門始祖説
 蜜柑の歴史を調べるにおいて、江戸時代の最もまとまった柑橘史とみられている書物がある。それは享保19年(1734年)に有田郡石垣組中井原(現金屋町)の中井甚兵衛が書いた「紀州蜜柑傳来記」である。
 紀州蜜柑傳来記では『有田蜜柑の儀は享保19年寅の年より160年ほど以前、天正2年(1574年)甲成年中有田郡宮原組糸我庄中番村伊藤仙右衛門と申者肥後国八代と申す所より蜜柑小木を求め来たり、初めて宮原糸我の庄内に植継候処、蜜柑土地に応じ、風味無比類色香果の形他国に勝り候に付き、次第に村々へ植え広げ申候。130年以前、慶長の始め(1596年~)には保田の庄、田殿の庄へも一ヶ村に50本、70本程ずつ生ひ立ち候由。夫れより年々相増し篭数も出候に付、大阪、堺、伏見へ小船で積み送り申候。そこへも山城の国より蜜柑出で候得共有田の蜜柑格別勝り申すに付値段高値に買われ申候』とある。これによると、中井甚兵衛は『糸我庄の伊藤孫右衛門が天正2年に八代より蜜柑の小木を持ち込んだのが最初である』と断言している(始祖説)。尚、「紀州蜜柑傳来記」には伊藤仙右衛門と書かれている。「肥後の高田蜜柑の由来雑記」にも「伊藤仙右衛門なる者が紀州より来る」と書かれている。
 有田郡糸我庄の伊藤孫右衛門(天文12年生まれ)家過去帳に「六代目孫右衛門寛永5年(1628年)7月15日85歳にて死去。此人天正2年肥後国八代より蜜柑の小木を取り来たり初めて植えたる人にして有田蜜柑の元祖なり、此事子々孫々永く不可忘なり」とある。伊藤仙右衛門は七代目(正保元年1644年死去)であり、「紀州蜜柑傳来記」、「肥後の高田蜜柑の由来雑記」は天正以降の書き物であれば、六代目伊藤孫右衛門と間違ったようである、伊藤家は代々農家を営み現在の当主は21代目である(16)
ロ、「紀伊有田郡先賢伝記」・・・伊藤孫右衛門始祖説
 
【伊藤孫右衛門碑】  
 伊藤孫右衛門は当時、糸我の庄の里正職(村長)にあり、家業は農業で勤勉努力家で信厚かった。その役職により、時々若山(和歌山)上司宅に勤仕していた。ある時肥後の国八代に蜜柑なる果物ありて、その収益大変大きい。紀州藩にも導入したいので蜜柑の木を求めてくるよう命を受ける。
 当時は各藩の特産物は門外不出、他藩との通商貿易を許さず、蜜柑の小木の取得に難儀する。一計を用いて小木2株を手にして帰国する。1株は上司宅へ、1株は自己の畑に植えて培養する。若山の小木は枯死、伊藤の小木は成長する。その枝を在来の柑橘に接ぎ木したところ、やがて甘酸っぱい「小ミカン」が結実する。「紀伊有田郡先賢伝記」には、そのことについて、「その果実、甚だ美麗にして風味佳良他の果実の遠く及ばざるものにして、村民その味を賞し、その木の分与を得る。その後も培養増殖の研究指導を行い、慶長時代(安土・桃山後期1596年~)には糸我庄は勿論、宮原・保田・藤並の各庄には蜜柑の木増殖すると」と記述されている。
ハ、南紀徳川史(巻之百三、郡制第十五産物誌一 紀州蜜柑記)
   ・・・伊藤孫右衛門始祖説

 南紀徳川史は紀州藩の臣堀内信が紀州徳川家の出来事等を記録し、和歌山東照宮に保存されていたものを、「南紀徳川史刊行会」が昭和5年から8年にかけて編纂したものであり、事実に基づく書物として信頼されている。それには、『有田蜜柑の創始は伊藤孫右衛門が天正2年に肥後八代から移植したことに始まる』としている。南紀徳川史巻之百三産物誌の項には「有田蜜柑之儀は天正二甲成歳九州肥後之国八つ代と申所より蜜柑小木求来り始めて宮原組糸我之庄中番村地蔵堂孫右衛門と申人植え候」。そして、伊藤の植えた蜜柑は土地にあい『風味無比類色香菓之形他国に優れ候に付次第に村々に植え広げ慶長元年(1596年)には保田の庄、田殿の庄内にも一ヶ村50本乃至70本づつ生え年々に出荷も増えている』と記述されており、有田蜜柑については伊藤孫右衛門始祖説である。
ニ、紀伊国名所図絵(後編巻之二 産物蜜柑)・・・伊藤孫右衛門始祖説
 紀伊国名所図絵においても当時の和歌山の産業紹介があり、蜜柑について『我が国の「乳柑」(みかん)は土人伝(現地の人の曰く)に天正年中肥後国八代より小樹を得て糸鹿荘に植えたりしに勝れて気味甘味なれば、近郷の村々にも相競ひて接樹せしとぞ』との記述があり、伊藤孫右衛門が天正2年(1574年)に持ち帰った説をとっている。

4.有田みかんは室町時代後期には商品化されていた
 有田蜜柑発祥とされる有田郡糸我庄のみかんについて、自生説、移植説について現存する諸資料を紹介してみたが、その他にも中村吉治「日本経済史概説」、豊田武「増訂中世日本商業史の研究」、佐々木銀弥「中世商品流通史の研究」等があり、それらにおいても、天正時代説、それ以前の室町時代説と見解が分かれている。
 有田地方の諸資料、また口伝においても、有田蜜柑の創始は伊藤孫右衛門による移植説が多いのであるが、安土・桃山時代の天正2年以前に蜜柑栽培がされていた資料があるので紹介する。
(1)紀国つねゆき(俊連)の短歌・・・・室町時代自生説
 「糸我社由緒書」に室町時代中期、文明年中(1469年~1486年)に歌われた紀国造つねゆきの短歌一首が載せられている。
  千はやふる 神の受け持つ恵みにや
         糸鹿の山に生ふるたちばな
 この歌から1469年頃には熊野詣での参拝路である糸鹿(糸我)の山には、旅人の日に止まる「たちばな」すなわち蜜柑が栽培されていたことを物語っている。紀国造つねゆき(後、俊連)は和歌山市日前宮第64代の実在の神官である。
(2)三条西実隆の日記・・・室町時代自生説
 三条西実隆は室町時代の公家文学者と称された実在の人であり、其の日記は室町時代の根本資料としては信頼度の高いものである。「実隆公記」巻の八・53頁、享禄2年(1529年)11月30日の条に『前左自紀州上洛被送蜜柑』との記録があり、紀州より京都に帰る際、有田蜜柑を土産とした形跡がある。「実隆公記巻之八」とは享禄2年(1529年)7月から天文2年7月(1533年)までの日記の収録である(17)
 享禄2年は伊藤孫右衛門が肥後八代から蜜柑の小木を持ち帰った1574年より四十数年も前の事である。

5.伊藤孫右衛門は有田みかんの始祖ならずとも
           「品種改良による興祖」
 
  【有田郡有田川町】
 さて、「実隆公記」にみられるとおり、実隆公は上洛に際し、有田の地で蜜柑を土産とした。実隆公は文学者であり、82歳で亡くなる直前まで62年間日記を書いている書筆家である。その篤実な実隆公が不味いミカンを土産にすることは考えられず、求めたのが‘橘’でなく“蜜柑”と記していることを考えると、前述の「糸我社由緒書」に書いている、『永享年中(1429年~1440年)に糸我の庄中番村の地に橘生えでて実を結ぶ。その味密の如し、よって“蜜柑”と号す』との記録から100年後のことであり、中番地域には“蜜柑”が広く栽培されており、室町末期には熊野詣での京都の人たちの噂にあがる珍しい果物との評判があったものと考えられる。
 ということになると、有田でのみかんの起源は、伊藤孫右衛門による天正2年ではなく、もっと古くからということになる。
 八代市教育研究所「肥後の高田みかんの由来雑記」によると、「天正2年、紀伊国在田郡宮原組糸我庄中番村の伊藤仙右衛門(孫右衛門)が八代の高田に来たり、蜜柑苗木8本と種を求む」との記述と「高田のみかんが今日有名な紀州みかんの元祖である。みかん苗8本と種が紀州に伝えられ、有田川一帯で奨励された。紀州へ伝来した蜜柑は紀州藩主の保護奨励のもとに最大の集団的果樹栽培地域を形成した。 有田郡にみかんが広く栽培されるにいたったのは藩主頼宣公の奨励によるところが大きかった。 有田地方は耕地が少なく、人口の多い有田川下流地方の貧困な生活が原因であり、山畑でも高収益のとれるみかん栽培に力を注いだのであろう」と論述している。
 以上、有田蜜柑の起源について諸々の資料から考察してみたが、伊藤孫右衛門の「八代からの蜜柑入手」は事実である。享禄年間の「実隆の蜜柑土産」も信用のできるものである。ということになると、伊藤孫右衛門は「有田地方に初めて蜜柑を移植した」ということは否定されなければいけないが、有田の蜜柑以上に味のよかった優良品種である八代の「小ミカン」を苦労して入手、在来からある糸我の蜜柑に接ぎ木をしたのであろう。やがてその樹から従来以上のおいしい蜜柑が実を結んだ。村人その優良なる果実に驚き、盛んに在来種に接ぎ木をする。数年にして、紀州有田においしい蜜柑ありとの名声があがり、以後、有田みかん(一名紀州蜜柑)は江戸時代後期の「温州みかん」の普及まで天下を風靡することとなる。収益の良い蜜柑栽培は他藩の欲するところとなり、やがて他藩への苗木移出も始まり、量産化とともに蜜柑は高級水菓子から大衆果物となって普及していく。しかし、有田地方の蜜柑栽培者の所得向上、また紀州藩への「蜜柑税」(18)納入による藩への貢献等蜜柑農業発展の基礎を築いたのは、先見性を発揮し、優良品種増殖に尽力した伊藤孫右衛門であろう。「孫右衛門こそ有田柑橘界の興祖」として、その功労を讃えられるべき人物である(19)

6.温州みかんの発現がみかん産業の発展に拍車
 
  【紀州みかん】
 通常、人々が口にする「ミカン」とは明らかに“温州みかん”をさしている。小ミカン、夏ミカンを指すのではない。単にミカンと言っただけで温州みかんの意味になるのは、現在、「温州みかん」がミカンの代表品種だからである。有田蜜柑の起源と発展の経緯については前述のとおりであるが、「みかん」については、有田がすべて“最初”というのではない。気候風土、地理的条件において、また創始においては後手にまわっていることもある。しかし、スタートでの出遅れを偉大な先人たちは先見を発揮し、且つ人一倍努力し、苦労し、追いつき、追い越し、“みかん”のことなら「有田で聞け!」と言われる地位を確保して、今日にいたっている。

 小ミカンを改良して、「紀州みかん」としての名声を得て、「みかん藤」こと滝川原藤兵衛(20)の江戸への売り込み。紀伊国屋文左衛門の命をかけたみかん船(21)

【紀伊国屋文左衛門】 【みかん船(みかん資料館所蔵)】

 紀州藩の財政へ貢献する産業となった有田みかん。それを一段と拡大したのが「温州みかん」の導入である。
 「温州みかん」は日本で生まれた日本柑橘の代表的品種であり、有田地方の代名詞的品種でもある。有田みかんが品質・味・色つや・形状において日本一のみかんとして他を寄せ付けない産地になっている根本には早くに「温州みかん」に目をつけたことが他産地を一歩リードした。九州熊本県八代から「小ミカンの改良種」を取り寄せて他産地を陵駕。次に鹿児島県東町の「温州みかん」に目をつけたことが、和歌山をみかん王国にしたのである。

7.温州みかんはどうして発現したか
 
  【九年母】
 「温州みかん」はどこで生まれたのか?日本の柑橘類の多くは中国大陸から移入されている。また、中国浙江省に「温州」という地名もある。ということから、温州みかんは中国からの輸入という説もあるが、学者間での統一見解を説明しておきたい。
 温州みかんの産地問題についての第一の研究者は田中長三郎博士(前述紹介)である。博士は中国各地を実地踏査され、中国には「温州みかん」が存在しないことを自著の「柑橘の研究」で発表している(22)。では何故「温州」という紛らわしい名前がついたのか?
 「鹿児島県戦後柑橘農業史」の「果樹栽培の沿革」の項に温州みかんの由来が記載されている(23)。「温州みかんの原木のおいたち」としては、田中長三郎博士の研究を取り上げている。【田中博士は永年にわたる調査から「温州みかん」は鹿児島県出水郡長島(現東町)が原産地である。中国浙江省や黄岩県から伝来していた「早桔」か「慢桔」または「天台山桔」類のミカンが長島で『偶発実生』したもので、時期は《江戸初期》のころ発現したものであろうと結論された】としている(24)
 その後昭和11年(1936年)に、鹿児島県果樹試験場技師岡田康雄氏が出水郡東長島村鷹巣(現東町)山崎司氏の畑地において、樹齢300年以上と推定される温州みかんの古木(岡田氏はその樹は接ぎ木しているので先代があったと思われるとの記録を残している)を発見し、田中博士の推論の正確なことを実証した(25)。また、岡田氏は出水郡下で樹齢100年、120年、150年の古木も同時に発見しており、それらと対比して樹齢300年と推定している。その木は幹周180センチ、樹高7メートルの巨木であったが、原木は惜しくも太平洋戦争で枯死した。しかし、その側に原木から接ぎ木した三代目(岡田氏の発見した古木は2代目)が育っているという(26)
 なお、田中博士は偶発実生の温州みかんの原木は中国からの早桔、慢桔、天台山桔であろうとしていたが、最近にいたって農林水産省果樹試験場カンキツ部でのDNA鑑定では「クネンボ(九年母)」に遺伝子が似ているという研究がある(27)
 九年母(クネンボ)(室町時代伝来)はインドシナ原産で、南中国から沖縄を経てわが国に伝来し、紀州みかんや柑子とともに江戸時代までの日本の主流品種であった。果実は温州蜜柑に似て、扁球形で大果、糖、酸ともに高く種が多い。独特の臭気があり、人により好き嫌いあるミカンである。現在は経済栽培されていない。
 さて、突然変異に発現した「温州みかん」は当時、肥後の国天草郡西仲島(鹿児島県長島となり 現鹿児島県出水郡東町)であったことから「なかじま蜜柑」や「長島蜜柑」と呼ばれていた。その後は「唐みかん」や「李夫人(リウリン)」とも呼ばれる。
 「温州みかん」が文献に登場するのは、1833年の南海包譜に「李夫人、一名温州蜜柑」との記述がある(日本マンダリンセンター調べ)(28)。次に嘉永元年(1848年)に書かれた、岡村尚謙の「桂園橘譜」に「温州みかん」が写生図で紹介されており、これが温州みかんの正確な記録を載せた最初とされている。これを明治の碩学者田中芳男、池田定之等の諸氏が採用し、その後農務省を中心として此の名が広く用いられようになり、『温州みかん』に統一されたという(29)
 天保2年(1830年)P・F・フォン・シーボルトは長島みかん(温州みかん)を初めて欧米に紹介している。続いて明治9年(1876年)G・R・ホールが温州みかんの苗木を初めて米国に輸出した。この苗木は薩摩から出荷されたので「サツマ・マンダリン」(Satsuma Mandarin)が英文名となっている。

8.温州みかんの命名
 「温州みかん」の名は文献では1833年の「南海包譜」に記され、1848年の岡村氏の桂園橘譜に紹介されている。天保年間(1830年から1843年)にかけて完成した「紀伊続風土記」巻之九十五物産第三の項に「温州橘」が有田で栽培されていたことの記述がある。これは「温州蜜柑」のことであろう。しかし、「温州みかん」の名は誰がつけたのか、これは不明である。名付けた当時の人たちは、自分たちのミカンの多くは中国浙江省の温州地方から入ってきている。今回発見されたミカンも温州地方からのミカンのお陰である。そこでミカンの産地で名高い「温州」の名前が冠せられたのではなかろうか。だから紛らわしいが、温州みかんは必ずしも「原産地」を意味するものではないと言える。

9.温州みかんは忌み嫌われた!!
 鹿児島県長島は良港を有し、8世紀ごろから中国との交流があった。遣唐使船の直接の発着場ではないが、遣唐使船と長島を結ぶ記録が続日本記(797年編纂完成)に宝亀9年(778年)11月5日、唐を出発した遣唐使船が暴風に遭い難破。西仲島(長島)に漂着したと記録されている。中国からの難破船が漂着することが多かった(30)。そのような地域であれば、ミカン類の宝庫である中国からミカンの種子が入り込んでいても不思議ではない土地である。
 さて、小ミカンより大きく、味のよい温州みかんであるが、暫くは冷や飯を食べさせられることとなる。つまり、あまり大ぴらに世に出ず、自家消費にとどまり、土地の栽培史に記録されることがなかった。その温州みかんは「無核」すなわち「種なし」であった。封建時代の当時は子孫繁栄が第一であり、「子を産まず」は不吉を意味し、種無しのみかんを食べると家系が絶えるということで忌み嫌われた。特に武士階層では男の子が産まれなければお家断絶になってしまうということから、縁起を担ぎ温州みかんに手を出さなかった。試食した人々は美味しいのはわかっても「種無し」が障害となり、歓迎されなかったのである。つまり、栽培しても売れなかったのである。
 しかし、時代とともに文化が進み、人の頭も開けてきて、また、温州みかんの「甘酸相和す風味」を知るに及び各地で栽培が始まった。江戸後期になると「上品の柑橘は核無し」となり、人々が好んで食するようになる。
 温州みかん発祥地の鹿児島において、みかんの本格栽培が始まったのは明治28年(1895年)に当時の加納県知事の温州みかん栽培奨励が最初とされている(31)

10.有田への温州みかん伝来・・・1800年代初頭?
 
【上野早生】  
 みかん栽培にたえず工夫していた有田の人々も温州みかんの品種の良さに目を付け、江戸中・後期には移入されていたようである。福羽逸人著「紀州柑橘録」には文化10年(1813年)から始まったらしいとの記述もあるが、前述の「紀伊続風土記」(天保年間1830年~1843年完成)巻之九十五、物産第三では、紀州の藩内で栽培されている果物として、有田に「李夫人(リウリン)」、「唐蜜柑」、「温州橘」が栽培されていたと記録されている。「鹿児島県戦後柑橘農業史」でみると、出水郡長島で発見された時の呼び名は「唐蜜柑」、「李夫人」であり、紀州藩の栽培記録に載るということは、有田で相当規模で温州みかんが栽培、また果実の収穫があったものと推測できる。となると、天保時代初期またはそれ以前(1800年初)に鹿児島から既に温州みかんが導入されていたことは事実である。
 紀州有田に入って来た「温州みかん」であるが、当時は有田小ミカンが江戸へ年間50~60万篭ぐらい出荷されていた。しかし、みかん先進郡の有田といえども、「種無し」は不吉として珍重されなかったので、商業的栽培にはいたらなかった。しかし、発祥地鹿児島県での温州みかんの本格的栽培が明治28年から、また他県でも同時期ぐらいから栽培が本格的に始まったのであるが、流石に有田では明治に入ってから熱心に栽培され、他県より一歩早かったようである。明治14年(1881年)には有田から東京神田の青果市場へ初めて温州みかんが出荷されるや、大変美味と評判が立ち高値で取引される。これを聞いた有田の農家は本格的に温州みかんの栽培を始める。有田地方は明治17年(1884年)に旧蜜柑方に代わる同業組合を設立。明治20年(1878年)には小ミカンの改殖が始まる。明治22年(1889年)7月1日東海道線が全通し、有田みかんは海上輸送の熊野灘経由をやめ、大阪経由の鉄道便を利用するようになり、天候に左右されずに計画的に出荷出来るようになる。当時の箱詰めみかんの販路は東京70%、大阪20%、名古屋10%であった。
 大正期に入ると伊藤孫右衛門が肥後八代から移植した改良小ミカン(紀州みかん)に代わって、温州みかんが王座を占めるようになる。温州みかんは江戸時代には障害であった「種無し」が有利となって、明治中期になってから和歌山県内、近畿、九州、四国、中国、東海地域でも同じく栽培されるようになるが、気候風土が適し、かつ紀州小ミカンの永年にわたる栽培技術、今風に言えば「蓄積したノウハウ」のある「有田地方」が一歩抜きんでた美味しいみかんを生産し、みかんといえば、「やはり有田」の地位を確保する。
 その温州みかんはやがて改良され、青江系(1882年~)、宮川系(1909年~)などの「早生」(ワセ)温州が生まれ、また「中生」(ナカテ)、「晩生」(オクテ)温州が育成され、最近は極早生品種も多数生まれた。さらにそれらの系統樹からの枝変わり、交配によって高品質の果樹が増えていく。温州みかんは通常、苗木産地別に在来系(福岡)、尾張系(愛知)、池田系(兵庫)、伊木力系(長崎)、早生(青江早生、宮川早生等)に大別される。
 それでも、日本の柑橘の近代化は外国に比べて遅い。欧米の柑橘産地では他産地との熾烈な販売戦争によって、絶えず主力品種の交替を行って農家の経営が維持されている。
 日本のみかん産業は産地拡大・大増産による価格暴落、グレープフルーツやオレンジ輸入による競合問題、ミカン産地以外の他府県の果実売り込み(メロン、イチゴ、リンゴ、ナシ、ブドウ、カキ、モモ)等の問題、また消費者嗜好・食生活の多様化、果実消費の少量多品目化、への対応もあって、生産農家の経営維持のため、品種更新による未収益期間の短縮と高糖系新品種の研究、肥料・農薬・接ぎ木技術・選果機器の改良、貯蔵施設の改良等について、今、みかん農家や果樹研究機関が課題として真剣に取り組んでいる。

参考文献
 本論文をまとめるにあたって参考にした文献は次のとおりである。引用したものは直接本文中や脚注にその旨記したが、直接引用しないまでも、先達の多方面からの研究に大変参考になった文献もあり、ここに記載し、ご労苦に敬意を表し感謝いたします。
有田市誌、昭和49年7月、有田市誌編集委員会発行。
紀伊続風土記巻之九十五、物産第三果部の項、仁井田好古他著
昭和45年1月、歴史図書館発行、(有田市立図書館、県立図書館所蔵)。
南紀徳川史巻之百四、巻之六十四、紀州藩臣・堀内信編集、
昭和5年9月、南紀徳川史刊行会発行、(有田市立図書館、県立図書館所蔵)。
糸我郷土誌、第二集稲荷神社、平成6年9月、糸我愛郷会発行、生馬貞二編集。
糸我郷土誌、平成10年3月、糸我愛郷会発行、生馬貞二編集。
紀州有田柑橘発達史、大正15年12月、有田郡田殿村、中西英雄発行。
紀州蜜柑伝来記、享保19年10月(1734年)、有田郡石垣組中井原、
中井甚兵衛著(県立図書館所蔵)。
糸我社由緒書、文化7年(1810年)林周防著、(糸我稲荷大神社所蔵)。
紀州蜜柑の起源、(和歌山の研究2収録)安藤精一著、
昭和53年9月、清文堂発行。
10 和歌山県有田郡誌、大正4年5月、和歌山県有田郡役所発行。
11 和歌山県柑橘業の概要、昭和14年5月、紀州柑橘同業組合連合会発行。
12 肥後の高田蜜柑の由来雑記、八代市教育研究所長江上敏勝著
昭和40年9月、八代市教育研究所発行。
13 温州蜜柑原木のおいたち、鹿児島県出水郡東町役場農林課。
14 下津町史通史編、昭和51年3月、下津町役場。
15 和歌山県の果樹、昭和29年10月、和歌山県果実農業協同組合発行。
16 和歌山のかんきつ、昭和54年3月、和歌山かんきつ400年記念、事業委員会発行。
17 話題の柑橘100品種、昭和52年8月及び平成9年8月、
愛媛県青果農業協同組合連合会発行。
18 和歌山県農林水産統計、平成11年1月、和歌山農林統計情報協会発行。
19 和歌山県統計年鑑、平成11年3月、和歌山県企画部統計課発行。
20 愛媛県のみかんの起源、愛媛県吉田町役場。
21 肥後国史、昭和46年復刻、青潮社、(熊本県立図書館所蔵)。
22 みかん栽培の伝来と発展、静岡県三ヶ日町役場。
23 ポケット農林水産統計、平成6年版、農林統計協会発行。
24 藤枝市史下巻、藤枝市役所教育委員会。
25 果樹農業発達史、昭和47年3月、農林統計協会発行、果樹発達史編集委員会編集。
26 蜜柑の紀州、昭和45年4月、和歌山県農会発行、(県立図書館所蔵)。
27 和歌山のミカン、昭和43年3月、毎日新聞社発行、(県立図書館所蔵)。
28 紀州蜜柑帳、大正2年10月、前山虎之助著発行、(県立図書館所蔵)。
29 柑橘案内、堀内仙右衛門著、明治45年4月
紀州柑橘那賀郡同業組合発行、(県立図書館所蔵)。
30 鹿児島県戦後果樹農業史、平成7年11月、久留正幸発行、(鹿児島県立図書館所蔵)。
31 紀伊国名所図絵後編、嘉永4年(1851年)歴史図書館発行
(有田市立図書館、県立図書館所蔵)。
32 実隆公記巻の八、(享禄2年7月~天文2年7月の日記収録)、
昭和53年3月、自続群書類従完成会発行、(県立図書館所蔵)。
33 我国蜜柑の経済研究、的場徳造著、昭和27年2月、養賢堂発行。
34 初島町誌、昭和37年7月、初島町教育委員会発行。
35 箕島町誌たちばなの里、昭和26年9月、箕島町誌編纂委員会発行。
36 実伝紀伊国屋文左衛門、昭和14年4月、上山勘太郎著発行。
37 柑橘栽培地域の研究、昭和41年3月、村上節太郎発行、(有田市立図書館所蔵)。
38 紀伊国有田先賢伝記、高垣英一編集、昭和9年3月、有田郡教育界発行。
39 郷土資料辞典、昭和43年7月、人文社発行。

脚注一覧
(1) 本論編集にあたり、ご教示頂きました和歌山大学上野皓司教授並びに資料提供及び種々情報を頂きました有田市産業経済部農政課田中憲二氏、有田振興局農林水産振興部宮本久美氏、有田市郷土資料館館長小賀直樹氏及び学芸員西岡巌氏、近畿農政局和歌山統計情報事務所長津村重信氏、柑橘研究誌編集長森本純平氏に対しご協力を心から御礼申し上げます。
(2) 平成10年5月13日、農林水産省果樹試験場かんきつ部矢野昌充研究員発表。
(3) 「和歌山の柑橘」41頁。
(4) 前山虎之助著「紀州の柑橘」。
(5) 「郷土資料辞典・和歌山県の観光と旅」に記載。橘本神社には天照大神、伊弉諾尊、熊野座神も祀られている。
(6) 八代市「肥後の高田みかんの由来雑記」に記載。
(7) 「実隆公記巻之八」53頁。
(8) 「和歌山のみかん」に記載。
(9) 1956年、からたち会発行。和紀茂樹著「日本柑橘の史的研究・果樹研究第一集」22頁では、「橙」ではなく、古来の「橘」であると反論している。
(10) 「肥後の高田みかんの由来雑記」に記載。
(11) 「肥後の国史」に記載。
(12) 前山虎之助著「紀州」蜜柑帳」に記載。
(13) 伏見稲荷大社より古いということで、朝廷から「本朝最初稲荷大神社」の称号を与えられた。場所、有田市糸我町中番329番地。
(14) 「紀伊続風土記」では柑(みかん)、乳柑(ありだみかん、一名本みかん)と呼ばれている。
(15) 「紀州蜜柑発達史」に記載。
(16) 有田市糸我町中番の得生寺が菩提寺。伊藤家は代々農業を営み、現在の当主は21代目の伊藤一美氏。
(17) 「実隆公記」は実隆が20歳の元明6年(1474年)から天文5年(1536年)までの62年間にわたる漢文体日記であり、原本は東京大学資料編纂室に所蔵されている。
(18) 「紀州蜜柑伝来記」に元禄11年(1698年)、初めて江戸回し一篭につき銀一分を紀州藩が課すと記載されている。
(19) 「紀州蜜柑発達史」には伊藤孫右衛門は我が紀州での創栽者にあらずとするも、興祖としての深大なる功労あり、と讃辞を記している。
(20) 有田郡滝川原村(現有田市宮原町)の藤兵衛が寛永11年(1634年)に有田みかんを初めて江戸に1ヶ月かけて運ぶ。「紀州蜜柑伝来記」に記載。
(21) 貞享2年(1685年)、紀伊国屋文左衛門が嵐の中を江戸にみかんを運び、江戸っ子の喝采を浴び、大金を得る。「実伝紀伊国屋文左衛門」に記載。
(22) 田中長三郎(1885年~1976年)、農学博士。大阪府立大学を昭和36年に退官。
(23) 農林水産省園芸試験場興津支場主任研究官岩政正男著「柑橘」に記載。
(24) 田中長三郎著「柑橘の研究」(養賢堂出版)に記載。
(25) 「鹿児島県戦後柑橘農業史、第1章」3頁に記載。
(26) 鹿児島県東町役場農林課発行「「温州」みかん原木のおいたち」記載。
(27) 静岡県清水市興津中町、農林水産省果樹試験場カンキツ部育種技術研究室長大村三男氏の研究。
(28) 鹿児島県出水郡東町鷹巣3786-14,日本マンダリンセンター。日本初のみかん博物館、みかんの資料と300種のみかん見本園がある。
(29) 「鹿児島県戦後柑橘農業史」に記載。
(30) 「日本マンダリンセンター」調べ。
(31) 「鹿児島県戦後柑橘農業史」に記載。


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