有田みかんデータベース

全国のみかん栽培史と江戸時代の有田みかんの流通
The History of Mikan-Cultivations in Japan  and the Marketing of Arida Mikan in Edo-Period. 
御前 明良
Misaki, Akira
ABSTRACT
 The cultivation of mikan(mandarin) contributed to the prosperity of many regions in Japan. At first the histories of the mikan-cultivation in several regions are surveyed and the relations with Arida Mikan are considered. Next the marketing and the method of transportations of Arida Mikan in Edo-period are discussed.
 ‘有田みかん’の発展は全国の他の産地のみかん栽培史と密接に関連している。熊本県や鹿児島県との関連については『経済理論』292号の拙稿で詳しく述べているが、以下では最初に他の産地の歴史や有田みかんとの関連を要約する。  次に江戸時代の有田みかんの流通の状況について概説する。(1) 

「経済理論」294号、2000年3月、和歌山大学発行
*:元紀州有田商工会議所
  元和歌山大学経済学部非常勤講師

1.他産地のみかん栽培史
 有田地方のみかん栽培は田道間守による橘伝来説、伊藤孫右衛門による改良、等の歴史を有し、大きく発展したが、他の地方の産地にはどのような栽培の歴史があり、有田みかんとどのような関連を持っているのであろうか(2)。 他の産地も有田みかんのように、独自の施策を実施し、拡大していったのであろうか。有田みかんの歴史をより深く理解するために、他の産地のみかんの起源を調べてみた(3)
 1)和歌山県下津町のみかんの起源
       ・・・田道間守の橘本神社の地
 
  橘(橘本神社内)
 有田地方とともにみかんの産地。海草郡下津町。田道間守の持ち帰りし「橘」を最初に植えたところであるが、商業ベースでの栽培起源は天正2年(1574年)以降。
 伊藤孫右衛門の改良種「紀州小ミカン」を導入したのが最初とされている。(昭和52年発行の『下津町史』)
  2)愛媛県のみかんの起源(『愛媛県果樹園芸史』)
 全国1位の出荷量、栽培面積をもつ愛媛県の発祥の地は北宇和郡立間村(現吉田町立間)である。立間は明治時代には愛媛県の全生産高の50%を占めていた地区である。
 その吉田町のみかん発祥についてであるが、一時多く栽培され、残存するコミカンは何時どこから導入されたのかは不明のようである。主流の温州みかんについては二説ある。一つは吉田町立間白井谷の加賀山平次郎が文久元年(1861年)に紀州から苗木を一本購入して植えたのが最初であり、その後明治に入ってから逐次拡大を続ける。慶応元年(1865年)に東宇和郡明浜町俵津の苗木商熊吉が兵庫県川辺郡東野村(現伊丹市)から55本の温州みかんの苗木を取り寄せ立間の加賀山千代吉に販売。これが増産体制の最初であるとの説もある(『吉田町・愛媛県のみかんの起源』)。
 もう一説は吉田町立間の毛山平之進・村井権七・三塁長野・薬師寺伊太郎等の祖先が伊勢神宮への参拝の帰途、紀州みかん(小ミカン)を持ち帰り、村々に広めたとの説。 
 吉田町への蜜柑伝来として土佐のみかんが出てくるが、土佐市農林課農業普及センターで調べてみると、土佐のみかん栽培は比較的新しく、18世紀頃では栽培の記録がなく、温州みかんについては安政2年(1855年)に山北村(現土佐市鏡町)で栽培がはじまったという。
 土佐に比べて、愛媛県吉田町の加賀山一族は大変みかん栽培に熱心に取り組み、紀州蜜柑の栽培に取り組むとともに、品種改良にも目を向け、温州みかんが良いと聞くと和歌山県、兵庫県から盛んに苗木を取り寄せて殖栽するとともに、接ぎ木による増殖を行い、明治14年ごろには立間村全村にみかん栽培が広がり、みかん王国(吉田町は平成9年度においては、果樹面積において全国3位、収穫量2位)の基が此の時代にできている。 
 明治17年(1884年)頃には松山市を中心に越智郡、温泉郡、伊予郡に温州みかんの苗木が広島県や和歌山県から多く導入されている。
 3)徳島県のみかんの起源(昭和41年11月発行『徳島の園芸』)
 徳島県勝浦郡勝浦町坂本字岩本の宮田辰次が寛政年間(1789年~1800年)に柑子の苗木を植え付けたのに始まり、その後同氏は、文政11年(1828年)に紀州より温州みかんの接ぎ穂を取得し、自家の柑子に接ぎ木して繁殖さす。村人これを倣って漸次普及したのが徳島県のみかん栽培のはじまりとなる。
 徳島産温州みかんが、市場流通目指して本格的に栽培されるようになったのは明治28年頃から大正10年頃にかけてである。勝浦、園瀬、阿南、徳島、小松島、那賀諸川の沿岸地域が産地である(『徳島の果樹』)
 4)香川県のみかんの起源(『大野原町五郷みかん史』)
 嘉永3年(1850年)に香川県大野原町五郷の佐伯国冶助が和泉国池田(大阪府)より小ミカン(紀州みかん)の苗を持ち帰り植えたのが最初。その後、安政4年(1857年)には同地の藤川寅吉が伊勢参りのおり、「種なしみかん」(温州みかん)の苗木2本を持ち帰り、自畑に植え付ける。万延元年(1860年)同地の篠原秀作が藤川氏より穂木を譲り受けて大量に栽培したのが果樹園としての始まりである。
 香川県での他の郡部のみかん栽培は温州みかんが農家の収益に良いという評判が広まった明治16年頃からである。
 5)静岡県のみかんの起源
 愛媛、和歌山に次ぐ産地が静岡県である。その静岡での産地は静岡県引佐郡三ヶ日町である。『静岡県柑橘史』で静岡のみかん栽培を調べてみると、明暦年間(1655年~1657年)から万治年間(1658年~1660年)にかけて庵原郡富士川町岩淵の常盤小左衛門が紀州よりみかん(紀州小ミカン)の苗木を持ち帰ったのが静岡における蜜柑栽培の発祥とされている。このことは明治45年4月、和歌山県農曾発行の『蜜柑の紀州』にも紹介されている。
 また、寛政年間(1789年~1800年)以前に引佐郡三ヶ日町の鈴木忠八が紀州みかんの苗木を持ち帰る、とも言われているが、これは口伝で確証はない。
 『三ヶ日町史』によると、三ヶ日町平山の人、山田弥右衛門(通称弥太夫)が享保(1716年~1735年)の頃に、紀州那智に参詣の折り、紀州みかんの苗木を持ち帰ったのが三ヶ日みかんの最初とある。また、弥太夫については、大正10年刊行の引佐郡誌にも、産業の振興に力を入れた人であり、蜜柑栽培による収益拡大を進め、紀州みかんの苗木を広く頒布した、と書かれている。同氏によって永い年月にわたって穂木が分与され、三ヶ日みかんの礎が築かれた。
 文政・天保(1818年~1843年)の頃には三ヶ日平山村を中心に大福寺村まで栽培が広まる(平山町には三ヶ日蜜柑の祖、山田弥太夫の墓が残っている)。
 三ヶ日町の温州みかん伝来は寛政年間(1789年~1800年)に紀州から藤枝市に導入された(『和歌山のかんきつ』)とある。
 『静岡県引佐郡誌』には「山田弥右衛門(通称弥太夫)が西浜名村(三ヶ日町)における紀州みかん栽培の始祖であり、加藤権兵衛が温州みかんの元祖である」と記している。
 加藤は天保年間(1830年~1843年)に三河国吉良地方(現愛知県幡豆郡吉良町、三河湾に面している)より苗木を購入し栽培する。これが温州みかんの最初とされている。
 三ヶ日町の平山の加藤家には「温州みかん発祥地」としての標示板があり、三ヶ日稲葉山には紀州みかん導入の山田弥右衛門、温州みかん導入の加藤権兵衛、また、大正時代に現三ヶ日みかんの栽培技術を普及した中川宗太郎ら3人の「謝恩柑橘頒徳碑」が建立されている。
☆藤枝市へのみかん伝来(『藤枝市役所農林課』)
 寛政年間(1789年~1800年)に温州みかん苗木が紀州から伝来。導入したのは藤枝市東北部に領地を持つ旗本、石川又四郎であり、また続いて、同地方の田中城、城主本多氏が紀州から苗木を取り寄せ領民に奨励した模様であるが、栽培技術が伴わず、同地方においては江戸時代には販売体制には至らず、農作物は米・茶が主産品であった。
 藤枝市のみかん栽培が本格化するのは、明治15年前後からで、先進地の紀州から温州みかんの改良種を適宜購入しながら増殖している。この時期、熱心だったのは子持坂村の杉山力蔵氏であった。同氏はみかん増殖につとめるとともに夏みかんを取り寄せる。また明治25年には和歌山県那賀郡から「ネーブルオレンジ」を導入し、藤枝市のネーブル栽培の端緒を開いている(『静岡県柑橘史』)。明治20年代に入ると温州みかんの栽培が全市に広がり、焼津港から東京方面に出荷され、明治中期には同地方は、静岡県のみかん先進地となる。
 6)広島県のみかんの起源
 (『広島県庁農林水産部農産課及び広島県の果樹来歴書』)
 『広島県農業発達史第二巻』によると、みかんの発祥は天文年間(1537年)に安芸の国の住人木村道禎が讃州(香川県)から小ミカンの苗木を求め、安芸郡蒲刈島の向村に殖栽。その後永禄年間(1558年~1569年)に安芸郡下蒲刈村(現下蒲刈町)へ増殖したのが始まりとされている。
 香川県から小ミカンを入手となっているが、香川県では小ミカン伝来の歴史にかんする記録なく、入手の検証は出来ない。
 また、安芸と有田を比較すると、小ミカンの安芸への伝来が事実とすれば、八代から有田への伊藤孫右衛門による小ミカン伝来は天正2年(1574年)なので、広島県への小ミカン伝来は有田より37年ばかり早いといえる。
 しかし、安芸の国においては、天文年間以降の小ミカン栽培の広がりはなく、元和5年(1619年)に紀州藩から移封された浅野長農が紀州から「紀州みかん」を取り寄せて増殖を勧めている。このことは、紀州有田への小ミカン導入が安芸より遅かったにしろ、元紀州藩主の浅野公が安芸藩の農家の活性化のために、紀州みかんを導入したことは、その時代(江戸初期)には紀州蜜柑が大変優れていたことの証明となろう。つまり、伊藤孫右衛門や有田の人たちの品種改良が九州や四国より進んでいたことの証明でもある。
 広島県における温州みかんの本格的な栽培は明治27年頃からである。導入の最初は文改元年(1818年)。豊田郡大長村の秋光彦左衛門が栽培したとなっている。
 広島においては、小ミカンの伝来が有田とあまり時間のズレがなく、また、九州に近い地の利から、温州みかんも江戸時代末期には伝来があったと思われるが、江戸時代においては産地的生産にまで至らず自家用としての栽培に留まっている。
 広島でのみかん栽培が盛んになるのは、明治36年の青江早生品種(大分県北海部郡青江で発見された、普通温州の枝変わりで、わが国最初の早熟みかん(通称早生みかん)の導入からである。
 7)熊本県のみかんの起源・・・八代小ミカンの発祥の地
 我が国のみかん栽培史では、一つの地域で”ある規模で栽培”されだしたのは熊本県八代郡高田村(現八代市高田)であり、その品種は、中国漸江省から伝来した「小ミカン」である。起源は前述したごとく、12~13世紀頃と推測されているが、ある程度の量産体制にあった様子にもかかわらず、「小ミカン」を特産品として藩外まで販売された形跡が見当たらない。なお、「温州みかん」の栽培については、発祥地の鹿児島県東町が近くのため、速やかな伝来があったと思うが、やはり、小ミカンと違う「種無し」が敬遠され、商業的栽培は明治2年に高田、宮地区で始まっている(『果物百年史果樹王国熊本』に記)。
 8)長崎県のみかんの起源・・・・伊木力温州の発祥地
 長崎県も肥後八代との交流のあるところであるが、「八代小ミカン」の商業的栽培記録は見当たらない。「温州ミカン」については、天明年間(1780年頃)に大村藩主、大村純鎮が薩摩の長島ミカン(東町の温州みかん)を彼杵郡(ソノギ郡)伊木力村(現彼杵郡多良見町)の田中唯右衛門、田中林衛門、中道継衛門の3氏に栽培させたのが始まりとなっている。この伊木力地方から良質の温州みかんが育成されたことにより、苗木が全国に出荷されるようになり、これが「伊木力系温州」と言われている。明治9年(1876年)には城下町ではミカンが売られていた。また、明治20年(1887年)頃には伊木力村ではミカンを植えていない農家はないと言うぐらいに産地が拡大し、現在も同地方は長崎県における主産地である(『長崎県農林部農産園芸課、長崎の柑橘』記)。
 9)佐賀県のみかんの起源・・・佐賀の園芸
 佐賀県も肥後八代に近い関係から、小ミカンの伝来が古くからあったと思われるので、県園芸課果樹係に調べてもらったが、記録が見当たらない。温州ミカンについては江戸初期に肥後天草郡西仲島(現鹿児島県出水郡東町)から「ナカシマ蜜柑」が伝わり、旧玉島村(現東松浦郡浜玉町)が最初に栽培した(『佐賀の園芸』に記)という。その後、同地から近隣に広まった模様である。しかし、江戸時代においては商業化されず、本格的に栽培されだしたのは明治の中頃からであり、その後急速に広まってゆく。
 10)大分県のみかんの起源・・・津久見の柑橘史
          ・・・小蜜柑の元祖木。青江早生の発生
 大分県の柑橘栽培の歴史については、大変古い伝承があるが、大分県における蜜柑栽培発祥の地は北海部郡津久見大字上青江字尾崎(現津久見市)である(『大分県流通園芸課』)。
 昭和18年に書かれた『津久見柑橘史』によると、神武天皇が津久見にて泊されしおりにミカンを献上したと伝えられ、天平12年(740年)に青江の松川にて柑橘の研究栽培を行う。その後又四郎なる者が保元2年(1157年)に松川より青江の尾崎にミカンを移植する。このミカンは「小ミカン」であり、ここのミカンはその後800年余生育、年々大量に実を付け、後世、「小蜜柑の元祖木」とされ、昭和12年6月15日に文部大臣安井英二より、史跡名勝天然記念物保存法による「天然記念物」に指定された。
 温州みかんの創始については享保10年(1725年)に青江の大庄屋西郷六左衛門が村人に栽培を奨励したのが始まりとされている。その温州みかんは肥後八代よりの移入であり、津久見では温州みかんを「八代みかん」と呼んだ。文化元年(1804年)には津久見村の蜜柑畑十四町歩との記録あり(『津久見柑橘史』)。明治13年には大阪に販売、明治18年に津久見青江に蜜柑問屋が開業されており、明治初期には小蜜柑に加えて温州みかんが広く栽培されだしたようである。
 なお、明治25年頃、青江地区において、従来木の枝変わりの早生品種が発見された。これは普通温州より1ヶ月早熟で、「我が国初の早生品種の発生」である。これは「青江早生」として全国に広まっていく。

2.江戸時代におけるみかんの流通・・・紀州藩の保護育成
 1)浅野幸長の慶長検地
 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに勝った徳川家康はその年に浅野幸長(ヨシナガ)を紀州藩主に任命した(37万4千石)。幸長は慶長18年(1613年)に死去、没後は弟長正(元和5年に安芸に移封)が継ぐ。浅野兄弟は元和5年(1619年)に徳川頼宣が紀州藩主に着任するまで約20年間紀州の治政に尽力した。
 浅野氏の功績は「和歌山城の築城」と「慶長の検地」である。応仁の乱(1466~1477年)以後、室町幕府の権威失墜、荘園制の崩壊、守護大名の変質があり、世は「戦国時代」に突入し、群雄割拠となって天下取り競争が始まる。各国の戦国大名は領国支配のため、領地の土地調査を行い、面積を把握するとともに、土地の所有関係を明らかにした。こうした土地調査を「検地」という。歴史記録的には永禄11年(1568年)の「信長の検地」、天正10年(1582年)の豊臣秀吉の「太閤検地」が有名である。特に太閤検地は全国規模で行われている。検地は精密に行われ、生産物から年貢を徴収するための資料として、作物も綿密に調査された。検地帳は米の生産高を中心に、桑、茶、紙、木、果樹もそれぞれ石高に換算された。これによって大名の領地の石高が明確となり、各藩のランクは石高によって呼ばれるようになる。
 浅野幸長は慶長6年(1601年)に紀州全域にわたって検地を実施する。この時代において、検地帳には有田郡以外の伊都郡、海士郡等にもミカンの木の本数が登録されている。
 勿論、室町時代からの「小みかん」栽培、天正2年(1574年)の伊藤孫右衛門による新品種導入があった有田地方ではかなりの栽培があったことが記述されている(『有田市誌』)が、有田以外の村々では十数本程度のみかんの木登録であり、紀州藩ではまだ年貢対象とする石高換算をしていない。
 2)徳川頼宣の入国・・・55万5千石・・・産業振興政策
 徳川家康は紀伊半島の守りを固めるため、第十子の頼宣を元和5年(1619年)7月に紀州藩主とする。以後紀州藩は徳川御三家として絶大な権勢を持つこととなる。
 頼宣は着任後、山が多く、平野地が少ないために貧しい村々を視察して、「勧業政策」に取り組む。有田地方では、有田川、山田川、広川の流域部には水田、海沿いの村には漁業を奨励。丘陵、渓部には天正年代から増殖しつつあったミカン栽培を勧める。山保田組(現清水町)には紙漉(保田紙)の生産、湯浅組(現湯浅町)には醤油増産を奨励するとともに、藩として、外貨獲得(他藩との通商)がしやすいように「紀州藩御用商人」の「藩札」交付や資金貸し付け、売掛金回収の手助けなど御三家の威光による保護策を存分に行い、産業の振興に力を入れる。また、頼宣は寺社の復興にも力を注ぐとともに藩政の改革に取り組み、藩主への中央集権組織を確立して、紀州統治の為の幕藩体制の足固めを行った。
 さて、藩主の奨励により、有田地方のミカン栽培は急速に広まっていき、頼宣着任後十数年にして江戸への販売が始まるようになった。
 享保19年(1735年)に書かれた有田郡石垣組(現金屋町)中井原の中井甚兵衛著『紀州蜜柑傳来記』には「有田蜜柑(小ミカン)は慶長の始め(1596年~)から有田の村々で栽培が増え、年々出荷篭数も増大、小舟にて大阪、堺、伏見へ積み送る。他藩の蜜柑も販売されていたが、有田の蜜柑は格別に味がよく、高値で売れる」と記されており、17世紀初期には関西方面に商業出荷されていたようである。
  3)江戸への蜜柑出荷始まる・・・滝川原藤兵衛の活躍
 大阪での有田小ミカンは年々評判が高まった。また紀州藩の保護奨励によって、有田での栽培農家が増えたことから、「江戸でも売れるのでは」と考えた人物がいた。当時では、元和5年(1619年)に堺の商人が大阪-江戸の定期輸送船として、250石(38t積み)船を走らせており(菱垣廻船)(4)、後に樽廻船も走る(5)。海上輸送の方法はあった。しかし、当時の操船技術、船舶の安全性、航行装置は未熟であり、名にしおう熊野灘、遠州灘を乗り切ることは大変なことであった。そのため、江戸へは天候の加減を見ながら、港港へ寄りつつの航路のため一ヶ月近くかかった。そんな手段で「生もの」のミカンを送ることは大冒険であった。
 『紀州蜜柑傳来記』に江戸出荷の創始者、有田郡宮原組滝川原村の「藤兵衛」のことが記されている。それによると、寛永11年(1634年)、藤兵衛は小ミカン400篭(一篭15キロ、計6t)を江戸行きの廻船に積み込んで勇躍出立した。太平洋の荒波に揺られ、揉まれて一ヶ月、藤兵衛の全財産を賭けた初めての輸送は見事成功する。当時、江戸では、既に伊豆、駿河、三河などからミカンらしき柑橘が販売されていた。しかし、それらは九年母、柑子の類であり、皮が厚く、味が淡泊であった。それらに比べて、有田の小ミカンは糖度が高く、風味、色艶、形状が他藩産を圧倒した。江戸には、柑橘類を扱う問屋や小売り、行商人も多かった。京橋の新山屋という水菓子屋から仲買人に売り捌いてもらうと、皆が飛びつき、味のよい有田小ミカンは一篭半(22.5キロ)が一両という高値で売れた。
 大成功に気を良くして藤兵衛は意気揚々と帰国する。村の人々はこの話に驚嘆し、来年は自分たちのミカンも積んで行って欲しいと依頼。村人の委託を受けて、藤兵衛は翌年2000篭を江戸に送り、二篭一両にて販売する。と書かれている(6)
 4)江戸時代の通貨と価値
 当時の貨幣価値は寛永時代(1624年~1643年)では、一両=銀60匁=銭4貫文(4000枚)であり、一両=金4分=金16朱(金一分は4朱)で換算された。江戸時代の通貨は「金・銀・銭貨」の三種類であるが、発行される小判についても時代によって金の含有率が異なり、換算率は毎日変動した。そのため、通貨の交換業者が必要となり、専門に両替を行う「両替屋」が発生した。
 元文3年(1738年)では金一両=銀65匁、銀一匁=銀10分=銀100厘、銭一貫=1000文、で両替されている。
 元禄10年(1697年)では、米一石=銀90匁=1.5両で両替されている。当時の一両は今の12~13万円の値打ちがあると思われるので、100石の武士は年収1500万円から2000万円ぐらいの管理職となる。1000石の武士は1億5千万以上円稼ぐ高給取りとなり、女中、家来を抱える大身の武士となる。
 尚、当時の庶民によく好まれていた「蕎麦」であるが、「二八蕎麦十六文」と言われていた。この時分の蕎麦は今のように色々な種類はなかったろうと思われる。となると「かけ蕎麦」となろうか。これを現在での価格だと400円ぐらいである。となると一両では250杯、10万円となる。当時は物価が安かったので上記のように一両は10万円から13万円と推測した(7)
 5)有田から江戸へのミカン出荷の方法
       ・・・(『紀伊国名所図絵』、『紀州蜜柑伝来記』)
 
 有田郡宮原組の「みかん藤兵衛」によって江戸で有名になった有田ミカンは年々江戸廻しが増えていく。

  寛永11年(1634年) 江戸へ初出荷  400篭   6t
  寛永12年(1635年) 2000篭 30t
  明暦元年(1655年) 5万篭 750t
  貞享年間(1684年~) 10万篭 1300t
  元禄年間(1688年~) 25~35万篭 3750~5250t
  正徳年間(1711年~) 40万篭 6000t
  弘化2年(1655年) 100万篭 15000t

 当時の有田ミカンの移出港は有田川河口の北湊(現有田市港)であった。有田川両岸の傾斜地に栽培されている蜜柑畑から収穫したミカンを、村々で、有田川に設置した「船場」と呼ばれるミカンの集合場所まで運び、そこから「ヒラタ船」と呼ばれる、底が浅く、幅の広い川船で北湊の「天甫(てんぼ)」と称する「荷揚げ場所」に運び、そこで荷送り先をチェックしてから、沖合の大型帆船(積載量は江戸初期は200~300石、その後時代とともに大型化し後期には1000石~1500石となる。100石で15t、1000石船で150tの積載)に積み込み、江戸、伊勢、尾張、浦賀に輸送した。北湊はまた有田川上流の山保田(現清水町)からの木材の集積地でもあった。伐採された木材は「筏」に組まれて運ばれ、買い主に引き取られた。ミカン移出が拡大するとともに、北湊は諸国からの仲買人や廻船業者、紀州藩の役人、蜜柑方の関係者等で賑わう町となり、飲食、宿屋、料理屋、万屋などのサービス業者も増加する。
 しかし、北湊の栄えたのは明治時代を経て大正13年2月18日の紀勢西線(現紀勢本線)が箕島まで開通するまでのことであった。開通後は箕島駅から、貨物列車でミカンを運送することになった。その後有田地方の宮原駅(大正14年12月11日)、藤並駅(大正15年8月8日)、湯浅駅(昭和2年8月14日)が開通することによって、有田川の利用がなくなり、殷賑を極めた北湊の町は衰退する。
 鉄道の開通によって、一番恩恵を受けたのは蜜柑業者であった。貨物船での輸送は天候との戦いであった。冬の紀伊水道は海が荒れることが多く、その間は船は停泊したままとなり、ミカンは滞貨で腐敗が発生して品痛みとなったり、ダブツキによる値崩れを起こしたりする。貨物列車の運行は計画的な出荷と運賃の低減となり、農家に多大の利益供与となった。
 6)蜜柑方制度・・・共同出荷体制の始まり 
 有田地域に「蜜柑方」という他藩にはない独特の機関が生まれ、ミカンの移出に大きな力を発揮する事となる。蜜柑方は寛永年間後期(1634年~1643年)に芽生えて、享保年間(1716年~1736年)に至って完成したとされているが、誰が、何時設立したという記録は見つかっていない。滝川原藤兵衛による江戸への蜜柑販売(1634年)以降、前述のとおり、江戸送りは年々増え、明暦元年(1655年)には5万篭を数えるに至った。しかし、出荷量が増えると荷主がまちまちな行動を取ることがあり、取引上不利なことも生じた。そこで、有田川流域の村々では出荷組合的な組織「組株」を設け、その世話人の手配によって、有田川河口の北湊にミカンを大量に運び、江戸に販売することとなった。明暦2年(1656年)には初めて「10組の株」を立て、江戸の蜜柑問屋の内、7店を窓口にしてミカンを売却した。
 そうなると、仕向地への輸送船手配や運賃、代金回収等の問題、出荷調整等の話し合いが必要となり、ミカン生産地の「組株代表者(荷親)」(現在の出荷組合で、生産地ごとに設立された)を選出した。その代表者たちの集会所(管理事務所)が北湊に設けられた。この集会所は「蜜柑方会所」と呼ばれ、役員(世話人)が置かれることとなった。「蜜柑方」という名は最初はなかったようであるが、蜜柑の世話人の集まる場所、また集会所の役員を指して一般が「蜜柑方」と呼ぶようになり、何時とはなしに「機関の名称」となった(『有田市誌』)。 
 7)蜜柑方の組織と役割
 
元 締 蜜柑方の代表者で、宮原、藤並、石垣の三荘から各1名ずつ選出されて、蜜柑方会所に勤務し、組株や荷送り先(仕向地)との連絡、蜜柑の積み出し、仕切金の受け渡しなど一切の事務をおこなった。
組 株 現在の出荷組合で、生産地の各村ごとに設立されていた。
荷 親 組株の代表者で出荷組合長に当たる。蜜柑の荷受け、費用の割り当て、仕切金の受け渡し。その他一切の責任者である。
岡 役 川船(ひらた船)によって北湊に蜜柑が到着すると、荷物を受け取り、送り状と引き合わせて荷数を改め、瀬取船へ引き渡す。
瀬 取 岡役から受け取った荷物に積荷不足などないか再調査して本船に引き渡す。
荷 積 毎日着荷蜜柑の送り状を岡役から受け取り、日計帳への書き写し、月末に月計出荷高を、口前所改めの帳面と引き合わせる。また一年の〆として、11月末日までの出荷高をもって蜜柑税の計算を行う。
順番所 北湊天甫に到着した順番に先着の本船に積み込み、仕向地への出発に荷物の順番を誤らないようにする。
積問屋 荷親と協議して輸送運賃を取り決め、廻船屋と交渉する。成約すると、運賃1両につき、銀8匁5分5厘ずつ荷親と廻船業者から仕立費として徴収する。これは当時「両八の取立」と呼ばれた。この費用は蜜柑方世話人の賄い費に当てられた。
荷主代 荷主の代わりに組株から江戸に派遣されて到着の蜜柑を受け取り、送り状と引き合わせて指定問屋へ引き渡したり、蜜柑代金の取り立て等に当たる。しかし滞在の経費がかかるため、小さい組では2組で1名派遣したり、又他組の荷主代に一任するところもあった。今で言えばミカン販売東京出張所長である。
問屋肝煎
(きもいり)
問屋を監督する役で、荷主代の中から諸事情に詳しい人物を選んだ。中井甚兵衛著『紀州蜜柑傳来記』には3名が記載されている。
  江戸肝煎   中番村   利右衛門
  田口村 清兵衛
  金屋村 又四郎
 8)特許組合としての蜜柑方の確立
 蜜柑方の根本精神は「共同出荷」であるが、今日の共同出荷と同じではない。今日の共同出荷組織は、組合員別に出荷数量、品名を記録し、等級分けするが、各農家の荷をごちゃまぜにして販売、利益を数量、等級に応じて配分するという「共同計算」を前提にしている。
 しかし、当時の蜜柑方のやり方は、荷主と荷の固有の関係は最後まで崩れない。荷主(農家)は自分の荷だけの運賃を払い代金をもらう。つまり、輸送、販売を共通のルートで行うための手段として、「蜜柑方」が発生したと言える。そして、この蜜柑方に紀州藩が保護をしていくことになるが、この共同出荷組織は他藩には生まれなかったものであり、有田ミカン大量販売システムとなる特筆すべき機関である。このことについて、小ミカンの発祥の地、肥後八代の『肥後の高田ミカンの由来雑記』にも、紀州へ伝来されたミカンは紀州藩の保護奨励の下に最大の集団的果樹栽培地域が形成され、その生産地において一村に一組のミカン出荷組合が出来、共同機関によって江戸への販売が伸びる旨の記述があり、有田の販売手段に敬意を表している。
 「蜜柑方」は出荷組合連合会であり、その構成単位であるのが地区農協とも言うべき「組株」である。明暦2年(1656年)の組株は有田、海草で10組だったが、貞享(1684年~1687年)の頃には30組ほどにふくれあがった。江戸の蜜柑問屋でも、有田の小ミカンを商うと儲かるということから問屋も乱立して十四、五軒となった。そうなると過当競争となり安値乱売をするところもでてきて、組株の儲けが減少した。
 貞享4年(1687年)、蜜柑方は問屋に公正価格維持を要請するために代表を江戸に送り、問屋と交渉する。その結果、問屋は京橋の堺屋藤右衛門ら9軒を指定し、それ以外とは取引禁止とする。また、生産者側の組株は、有田郡19組、海草郡4組に制限し、その増減は、問屋側の承認を必要とするという基本協約が結ばれた。ここに、蜜柑方は指定問屋と結んで利益の確保を図る販売システムを作りあげた。
 しかし、有田において、蜜柑の栽培農家が増えるとともに正徳4年(1714年)には組株が29組となった。組株が乱立すると、足並みが乱れ、お互いに得にならないとして、「これ以上増えては困る」とばかりに既成組の代表者が奉行所に願い出て、新規設立を御法度にしてもらった。ここに蜜柑方は藩の許認可のもとに存在する「特許組合」となったのである。
 9)紀州藩の保護政策
  紀州藩は有田蜜柑の販売と輸送の上で特別に保護政策をとっている。
  【1】  農家の共同出荷組織である蜜柑方制度を認証したのであるが、藩は蜜柑方に権力をもたすため「半官半民」の組織としている。すなわち、荷親、元締などの役員は荷主(組合員)から推挙されたが、さらに藩がこれを任命する形になっていた。
 蜜柑方の役員は単なる百姓の代表ではなく、武士に準ぜられ、「苗字帯刀」も許された。陸路、江戸に下るときも東海道五十三次の宿においては丁重に扱われ、江戸の問屋は品川まで出迎えるという“紀州家御役人”としてのもてなしを受けた。
  【2】  蜜柑船には「紀州家御用」の高張提灯を掲げ、荷揚げ場にも同じものを掲げた。その提灯を見た他船は“紀州の蜜柑船だぞー”と警戒して航路を譲ったと言われている。
  【3】  蜜柑の荷揚げ場に紀州藩専属の岸壁を使用さした。
  【4】  問屋からの代金取り立てを援助。『紀州蜜柑傳来記』によると明暦2年(1656年)に江戸に大火(明暦の大火)あり、問屋も罹災して、江戸へ送った5万篭の代金のうち、九百四十両の大金がこげついてしまった。再三催促しても支払いがないため、途方にくれた肝煎り達が紀州藩にその旨を申し出た。藩では問屋達を呼び出して支払を命じ、残金を支払わせたとある。
 以上のように、紀州藩の保護政策が徹底したお陰で江戸や尾張での有田蜜柑の販売は順調に伸び、農民達の恩恵は大きかった。
 10)紀州藩の蜜柑税
 紀州藩が蜜柑産業に特別の保護政策をとったのは、一つは室町時代から紀州には戦乱が多く、特に、天正13年3月の豊臣秀吉の紀州攻めによって、紀州は灰塵の被害を受ける。また、紀州は8割強が山で平地が少なく、田畑からの収穫が低く、農民は貧しかった。そのため、初代藩主徳川頼宣公以来、藩民の生活安定のための産業政策に力を入れていた。二つは農民達の収入を増やして生活を安定させ、「年貢」を取り立て、藩財政を豊かにすることにあった。
 有田蜜柑の江戸での販売は寛永年間(1624年~1643年)に芽生えた「蜜柑方」制度による。江戸での販売は大きく伸び、有田の蜜柑農家の増加と収入の伸びを導いた。
 紀州藩が蜜柑の売り上げに対して“御口銀”と称して税金を課すようになったのは、元禄11年(1698年)のことである。『紀州蜜柑傳来記』によると、その時の税金は蜜柑一篭(15kg)を基準とした。江戸廻し一篭につき銀一分。近国廻しは銀八厘。尚、正徳4年(1714年)には新金銀吹替えがあり、賦課金が半減している。江戸廻し一篭につき銀5厘、近国廻しは銀4厘。元禄から正徳時代には毎年30万篭から40万篭が江戸に出荷されており、紀州藩の財政への貢献は大きかったと思われる。
 元禄時代も中期になると治安も安定し、商人・町人の勢力が伸び、相対的に武士の立場が弱くなっていった。つまり、商人・町人達の生活レベルの向上に比べ、「合戦」、「武芸」の場のなくなった武士達の収入は増えなかったのである。そのため各藩は、藩財政確保のため「新課税」の創設に力をいれており、和歌山藩も藩外への売り上げの伸びてきた「蜜柑」へ税を課したことは当然と言えよう。
 尚、元禄11年(1698年)には井原西鶴が町人の成功・失敗談を描いた『日本永代蔵』を刊行している。又元禄15年(1702年)12月14日には赤穂浪士47士が吉良家へ討ち入りをしている。

参考文献
本論文をまとめるにあたって参考にした文献は次のとおりである。
引用させて頂いたものは本文中にその旨記載した。
直接引用しないまでも、諸先達の多方面からの研究が大変参考になった文献資料が多々ある。
ここに記載し、そのご労苦に敬意を表し、心から感謝いたします。
1. 有田市誌、昭和49年7月、有田市誌編集委員会発行。
2. 紀州蜜柑傳来記、享保19年10月、中井甚兵衛著。(県立図書館蔵)
3. 和歌山のかんきつ、昭和54年3月、和歌山かんきつ100年記念事業委員会発行。
4. 和歌山のミカン、昭和43年3月、毎日新聞社発行。(県立図書館蔵)
5. 実傳紀伊国屋文左衛門、昭和14年4月、上山勘太郎著発行。
6. 有田地方における蜜柑栽培の沿革其の一、平成8年、生馬貞二著発行。
7. 紀文、昭和44年3月、春秋居士著、金桜堂発行。
8. 箕島町誌たちばなの里、昭和26年9月、箕島町誌編纂委員会発行。
9. 鹿児島県戦後果樹農業史、平成7年11月、久留正幸著発行。(鹿児島県立図書館)
10. 和歌山県有田郡誌、大正4年5月、和歌山県有田郡役所発行。
11. 和歌山県農林水産統計、平成11年1月、和歌山県農林統計情報協会発行。
12. 図説和船史話、昭和58年7月、石井謙治著、至誠堂発行。
13. 柑橘栽培地域の研究、昭和41年、村上節太郎著発行。
14. 船と航海の歴史、石井謙治論文。
15. 人物海の日本史、鎖国と海商、柚木学論文。
16. 和船の歴史研究、神戸商船大学、松木哲論文。

脚注一覧
(1) 本論編集にあたり、ご教示頂きました和歌山大学経済学部上野皓司教授には厚く御礼申しあげますとともに、貴重な資料を提供頂きました皆様方に感謝と御礼を申し上げます。
(2) 平成9年度のみかん(温州・早生)生産県は36府県で、栽培していないのは北海道、青森、岩手、秋田、宮城、山形、福島、群馬、富山、石川、山梨の11カ所である。全国の収穫量は約156万トン。収穫量の多い県は1位愛媛県25万トン、2位和歌山県23万トン、3位は静岡の15万トンである(近畿農政局調べ)。
(3) 「紀州小みかん」及び「温州みかん」の発祥経過については和歌山大学『経済理論』292号の拙稿を参照されたい。
(4) 菱垣廻船とは大阪と江戸を結ぶ廻船のことで、堺の商人が元和5年(1619年)に紀州富田浦から250石の船を借り受けて木綿・湯浅醤油・油・酒・酢等の日常品を積んで江戸へ運送したのが始まり。やがて、寛永元年(1624年)に大阪北浜の泉屋平右衛門が江戸積みの廻船問屋を開いて定期的な運航を開始した。この頃から舷側に荷物が落ちないように竹垣を菱形に組んだ船を専用としたので菱垣廻船の呼称が生じた。
(5) 樽廻船とは関西の酒を専用に江戸に運送したために、「酒樽積廻船」、略して「樽廻船」と呼ばれた。船が大型化した後年には日常生活用品も運ぶようになった。
(6) 有田ミカンを滝川原藤兵衛が江戸に初めて送ってから50年、貞享2年(1685年)11月に有田生まれの快男児、紀伊国屋文左衛門が嵐の熊野灘、遠州灘を不眠不休で乗り切って江戸っ子の喝采を浴び、ミカンで万両の大金を儲けたと巷間に伝承されているが、当時の廻船は精々200石(30t)から300石(45t)積みの弁才船であり、江戸ではミカン不足で高値に売れたとしても当時の相場(ミカン2篭で1両)に上乗せしても精々1500から2000両が妥当ではなかろうか。それから船賃、乗組員費用、仕入れ代を差し引かなければならない。紀文の手元には大金が残り、それを元手に江戸深川で材木商を開業し、「紀文大尽」と称せられる豪商となっての活躍ぶりは周知のとおりである。弁才船(弁才はベザイの当て字で本来の意味は不明)の名は寛文時代(1661年から1672年)の史料に登場している。当時は250石積が中心で、元禄時代後半では500石から1000石(150t)船に発展している。主に江戸・大坂、瀬戸内の海運に使われた船型を言う。(石井謙治著『図説和船史話』、至誠堂)
(7) 江戸時代では小判の金含有率が時々変わっている。1匁は4グラムである。
   1601年慶長小判は1両中の金含有量は4.3匁、
   1695年元禄小判2.6匁、
   1710年宝栄小判2.2匁、
   1714年正徳小判4.0匁、
   1716年享保小判4.2匁(吉宗の享保の改革)、
   1730年元文小判2.3匁、
   1819年文政小判1.9匁、
   1837年天保小判1.6匁、
   1859年安政小判1.3匁、
   1860年万延小判0.5匁   である。


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