2.江戸時代におけるみかんの流通・・・紀州藩の保護育成 |
1)浅野幸長の慶長検地 |
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに勝った徳川家康はその年に浅野幸長(ヨシナガ)を紀州藩主に任命した(37万4千石)。幸長は慶長18年(1613年)に死去、没後は弟長正(元和5年に安芸に移封)が継ぐ。浅野兄弟は元和5年(1619年)に徳川頼宣が紀州藩主に着任するまで約20年間紀州の治政に尽力した。 浅野氏の功績は「和歌山城の築城」と「慶長の検地」である。応仁の乱(1466~1477年)以後、室町幕府の権威失墜、荘園制の崩壊、守護大名の変質があり、世は「戦国時代」に突入し、群雄割拠となって天下取り競争が始まる。各国の戦国大名は領国支配のため、領地の土地調査を行い、面積を把握するとともに、土地の所有関係を明らかにした。こうした土地調査を「検地」という。歴史記録的には永禄11年(1568年)の「信長の検地」、天正10年(1582年)の豊臣秀吉の「太閤検地」が有名である。特に太閤検地は全国規模で行われている。検地は精密に行われ、生産物から年貢を徴収するための資料として、作物も綿密に調査された。検地帳は米の生産高を中心に、桑、茶、紙、木、果樹もそれぞれ石高に換算された。これによって大名の領地の石高が明確となり、各藩のランクは石高によって呼ばれるようになる。 浅野幸長は慶長6年(1601年)に紀州全域にわたって検地を実施する。この時代において、検地帳には有田郡以外の伊都郡、海士郡等にもミカンの木の本数が登録されている。 勿論、室町時代からの「小みかん」栽培、天正2年(1574年)の伊藤孫右衛門による新品種導入があった有田地方ではかなりの栽培があったことが記述されている(『有田市誌』)が、有田以外の村々では十数本程度のみかんの木登録であり、紀州藩ではまだ年貢対象とする石高換算をしていない。 |
2)徳川頼宣の入国・・・55万5千石・・・産業振興政策 |
徳川家康は紀伊半島の守りを固めるため、第十子の頼宣を元和5年(1619年)7月に紀州藩主とする。以後紀州藩は徳川御三家として絶大な権勢を持つこととなる。 頼宣は着任後、山が多く、平野地が少ないために貧しい村々を視察して、「勧業政策」に取り組む。有田地方では、有田川、山田川、広川の流域部には水田、海沿いの村には漁業を奨励。丘陵、渓部には天正年代から増殖しつつあったミカン栽培を勧める。山保田組(現清水町)には紙漉(保田紙)の生産、湯浅組(現湯浅町)には醤油増産を奨励するとともに、藩として、外貨獲得(他藩との通商)がしやすいように「紀州藩御用商人」の「藩札」交付や資金貸し付け、売掛金回収の手助けなど御三家の威光による保護策を存分に行い、産業の振興に力を入れる。また、頼宣は寺社の復興にも力を注ぐとともに藩政の改革に取り組み、藩主への中央集権組織を確立して、紀州統治の為の幕藩体制の足固めを行った。 さて、藩主の奨励により、有田地方のミカン栽培は急速に広まっていき、頼宣着任後十数年にして江戸への販売が始まるようになった。 享保19年(1735年)に書かれた有田郡石垣組(現金屋町)中井原の中井甚兵衛著『紀州蜜柑傳来記』には「有田蜜柑(小ミカン)は慶長の始め(1596年~)から有田の村々で栽培が増え、年々出荷篭数も増大、小舟にて大阪、堺、伏見へ積み送る。他藩の蜜柑も販売されていたが、有田の蜜柑は格別に味がよく、高値で売れる」と記されており、17世紀初期には関西方面に商業出荷されていたようである。 |
3)江戸への蜜柑出荷始まる・・・滝川原藤兵衛の活躍 |
大阪での有田小ミカンは年々評判が高まった。また紀州藩の保護奨励によって、有田での栽培農家が増えたことから、「江戸でも売れるのでは」と考えた人物がいた。当時では、元和5年(1619年)に堺の商人が大阪-江戸の定期輸送船として、250石(38t積み)船を走らせており(菱垣廻船)(4)、後に樽廻船も走る(5)。海上輸送の方法はあった。しかし、当時の操船技術、船舶の安全性、航行装置は未熟であり、名にしおう熊野灘、遠州灘を乗り切ることは大変なことであった。そのため、江戸へは天候の加減を見ながら、港港へ寄りつつの航路のため一ヶ月近くかかった。そんな手段で「生もの」のミカンを送ることは大冒険であった。 『紀州蜜柑傳来記』に江戸出荷の創始者、有田郡宮原組滝川原村の「藤兵衛」のことが記されている。それによると、寛永11年(1634年)、藤兵衛は小ミカン400篭(一篭15キロ、計6t)を江戸行きの廻船に積み込んで勇躍出立した。太平洋の荒波に揺られ、揉まれて一ヶ月、藤兵衛の全財産を賭けた初めての輸送は見事成功する。当時、江戸では、既に伊豆、駿河、三河などからミカンらしき柑橘が販売されていた。しかし、それらは九年母、柑子の類であり、皮が厚く、味が淡泊であった。それらに比べて、有田の小ミカンは糖度が高く、風味、色艶、形状が他藩産を圧倒した。江戸には、柑橘類を扱う問屋や小売り、行商人も多かった。京橋の新山屋という水菓子屋から仲買人に売り捌いてもらうと、皆が飛びつき、味のよい有田小ミカンは一篭半(22.5キロ)が一両という高値で売れた。
大成功に気を良くして藤兵衛は意気揚々と帰国する。村の人々はこの話に驚嘆し、来年は自分たちのミカンも積んで行って欲しいと依頼。村人の委託を受けて、藤兵衛は翌年2000篭を江戸に送り、二篭一両にて販売する。と書かれている(6)。 |
4)江戸時代の通貨と価値 |
当時の貨幣価値は寛永時代(1624年~1643年)では、一両=銀60匁=銭4貫文(4000枚)であり、一両=金4分=金16朱(金一分は4朱)で換算された。江戸時代の通貨は「金・銀・銭貨」の三種類であるが、発行される小判についても時代によって金の含有率が異なり、換算率は毎日変動した。そのため、通貨の交換業者が必要となり、専門に両替を行う「両替屋」が発生した。 元文3年(1738年)では金一両=銀65匁、銀一匁=銀10分=銀100厘、銭一貫=1000文、で両替されている。 元禄10年(1697年)では、米一石=銀90匁=1.5両で両替されている。当時の一両は今の12~13万円の値打ちがあると思われるので、100石の武士は年収1500万円から2000万円ぐらいの管理職となる。1000石の武士は1億5千万以上円稼ぐ高給取りとなり、女中、家来を抱える大身の武士となる。
尚、当時の庶民によく好まれていた「蕎麦」であるが、「二八蕎麦十六文」と言われていた。この時分の蕎麦は今のように色々な種類はなかったろうと思われる。となると「かけ蕎麦」となろうか。これを現在での価格だと400円ぐらいである。となると一両では250杯、10万円となる。当時は物価が安かったので上記のように一両は10万円から13万円と推測した(7)。 |
5)有田から江戸へのミカン出荷の方法 ・・・(『紀伊国名所図絵』、『紀州蜜柑伝来記』) |
有田郡宮原組の「みかん藤兵衛」によって江戸で有名になった有田ミカンは年々江戸廻しが増えていく。
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寛永11年(1634年) |
江戸へ初出荷 |
400篭 |
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6t |
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寛永12年(1635年) |
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2000篭 |
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30t |
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明暦元年(1655年) |
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5万篭 |
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750t |
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貞享年間(1684年~) |
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10万篭 |
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1300t |
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元禄年間(1688年~) |
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25~35万篭 |
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3750~5250t |
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正徳年間(1711年~) |
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40万篭 |
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6000t |
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弘化2年(1655年) |
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100万篭 |
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15000t |
当時の有田ミカンの移出港は有田川河口の北湊(現有田市港)であった。有田川両岸の傾斜地に栽培されている蜜柑畑から収穫したミカンを、村々で、有田川に設置した「船場」と呼ばれるミカンの集合場所まで運び、そこから「ヒラタ船」と呼ばれる、底が浅く、幅の広い川船で北湊の「天甫(てんぼ)」と称する「荷揚げ場所」に運び、そこで荷送り先をチェックしてから、沖合の大型帆船(積載量は江戸初期は200~300石、その後時代とともに大型化し後期には1000石~1500石となる。100石で15t、1000石船で150tの積載)に積み込み、江戸、伊勢、尾張、浦賀に輸送した。北湊はまた有田川上流の山保田(現清水町)からの木材の集積地でもあった。伐採された木材は「筏」に組まれて運ばれ、買い主に引き取られた。ミカン移出が拡大するとともに、北湊は諸国からの仲買人や廻船業者、紀州藩の役人、蜜柑方の関係者等で賑わう町となり、飲食、宿屋、料理屋、万屋などのサービス業者も増加する。 しかし、北湊の栄えたのは明治時代を経て大正13年2月18日の紀勢西線(現紀勢本線)が箕島まで開通するまでのことであった。開通後は箕島駅から、貨物列車でミカンを運送することになった。その後有田地方の宮原駅(大正14年12月11日)、藤並駅(大正15年8月8日)、湯浅駅(昭和2年8月14日)が開通することによって、有田川の利用がなくなり、殷賑を極めた北湊の町は衰退する。 鉄道の開通によって、一番恩恵を受けたのは蜜柑業者であった。貨物船での輸送は天候との戦いであった。冬の紀伊水道は海が荒れることが多く、その間は船は停泊したままとなり、ミカンは滞貨で腐敗が発生して品痛みとなったり、ダブツキによる値崩れを起こしたりする。貨物列車の運行は計画的な出荷と運賃の低減となり、農家に多大の利益供与となった。 |
6)蜜柑方制度・・・共同出荷体制の始まり |
有田地域に「蜜柑方」という他藩にはない独特の機関が生まれ、ミカンの移出に大きな力を発揮する事となる。蜜柑方は寛永年間後期(1634年~1643年)に芽生えて、享保年間(1716年~1736年)に至って完成したとされているが、誰が、何時設立したという記録は見つかっていない。滝川原藤兵衛による江戸への蜜柑販売(1634年)以降、前述のとおり、江戸送りは年々増え、明暦元年(1655年)には5万篭を数えるに至った。しかし、出荷量が増えると荷主がまちまちな行動を取ることがあり、取引上不利なことも生じた。そこで、有田川流域の村々では出荷組合的な組織「組株」を設け、その世話人の手配によって、有田川河口の北湊にミカンを大量に運び、江戸に販売することとなった。明暦2年(1656年)には初めて「10組の株」を立て、江戸の蜜柑問屋の内、7店を窓口にしてミカンを売却した。
そうなると、仕向地への輸送船手配や運賃、代金回収等の問題、出荷調整等の話し合いが必要となり、ミカン生産地の「組株代表者(荷親)」(現在の出荷組合で、生産地ごとに設立された)を選出した。その代表者たちの集会所(管理事務所)が北湊に設けられた。この集会所は「蜜柑方会所」と呼ばれ、役員(世話人)が置かれることとなった。「蜜柑方」という名は最初はなかったようであるが、蜜柑の世話人の集まる場所、また集会所の役員を指して一般が「蜜柑方」と呼ぶようになり、何時とはなしに「機関の名称」となった(『有田市誌』)。 |
7)蜜柑方の組織と役割 |
元 締
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蜜柑方の代表者で、宮原、藤並、石垣の三荘から各1名ずつ選出されて、蜜柑方会所に勤務し、組株や荷送り先(仕向地)との連絡、蜜柑の積み出し、仕切金の受け渡しなど一切の事務をおこなった。 |
組 株 |
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現在の出荷組合で、生産地の各村ごとに設立されていた。 |
荷 親 |
: |
組株の代表者で出荷組合長に当たる。蜜柑の荷受け、費用の割り当て、仕切金の受け渡し。その他一切の責任者である。 |
岡 役 |
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川船(ひらた船)によって北湊に蜜柑が到着すると、荷物を受け取り、送り状と引き合わせて荷数を改め、瀬取船へ引き渡す。 |
瀬 取 |
: |
岡役から受け取った荷物に積荷不足などないか再調査して本船に引き渡す。 |
荷 積 |
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毎日着荷蜜柑の送り状を岡役から受け取り、日計帳への書き写し、月末に月計出荷高を、口前所改めの帳面と引き合わせる。また一年の〆として、11月末日までの出荷高をもって蜜柑税の計算を行う。 |
順番所 |
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北湊天甫に到着した順番に先着の本船に積み込み、仕向地への出発に荷物の順番を誤らないようにする。 |
積問屋 |
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荷親と協議して輸送運賃を取り決め、廻船屋と交渉する。成約すると、運賃1両につき、銀8匁5分5厘ずつ荷親と廻船業者から仕立費として徴収する。これは当時「両八の取立」と呼ばれた。この費用は蜜柑方世話人の賄い費に当てられた。 |
荷主代 |
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荷主の代わりに組株から江戸に派遣されて到着の蜜柑を受け取り、送り状と引き合わせて指定問屋へ引き渡したり、蜜柑代金の取り立て等に当たる。しかし滞在の経費がかかるため、小さい組では2組で1名派遣したり、又他組の荷主代に一任するところもあった。今で言えばミカン販売東京出張所長である。 |
問屋肝煎 (きもいり) |
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問屋を監督する役で、荷主代の中から諸事情に詳しい人物を選んだ。中井甚兵衛著『紀州蜜柑傳来記』には3名が記載されている。
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江戸肝煎 |
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中番村 |
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利右衛門 |
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田口村 |
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清兵衛 |
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金屋村 |
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又四郎 |
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8)特許組合としての蜜柑方の確立 |
蜜柑方の根本精神は「共同出荷」であるが、今日の共同出荷と同じではない。今日の共同出荷組織は、組合員別に出荷数量、品名を記録し、等級分けするが、各農家の荷をごちゃまぜにして販売、利益を数量、等級に応じて配分するという「共同計算」を前提にしている。 しかし、当時の蜜柑方のやり方は、荷主と荷の固有の関係は最後まで崩れない。荷主(農家)は自分の荷だけの運賃を払い代金をもらう。つまり、輸送、販売を共通のルートで行うための手段として、「蜜柑方」が発生したと言える。そして、この蜜柑方に紀州藩が保護をしていくことになるが、この共同出荷組織は他藩には生まれなかったものであり、有田ミカン大量販売システムとなる特筆すべき機関である。このことについて、小ミカンの発祥の地、肥後八代の『肥後の高田ミカンの由来雑記』にも、紀州へ伝来されたミカンは紀州藩の保護奨励の下に最大の集団的果樹栽培地域が形成され、その生産地において一村に一組のミカン出荷組合が出来、共同機関によって江戸への販売が伸びる旨の記述があり、有田の販売手段に敬意を表している。 「蜜柑方」は出荷組合連合会であり、その構成単位であるのが地区農協とも言うべき「組株」である。明暦2年(1656年)の組株は有田、海草で10組だったが、貞享(1684年~1687年)の頃には30組ほどにふくれあがった。江戸の蜜柑問屋でも、有田の小ミカンを商うと儲かるということから問屋も乱立して十四、五軒となった。そうなると過当競争となり安値乱売をするところもでてきて、組株の儲けが減少した。 貞享4年(1687年)、蜜柑方は問屋に公正価格維持を要請するために代表を江戸に送り、問屋と交渉する。その結果、問屋は京橋の堺屋藤右衛門ら9軒を指定し、それ以外とは取引禁止とする。また、生産者側の組株は、有田郡19組、海草郡4組に制限し、その増減は、問屋側の承認を必要とするという基本協約が結ばれた。ここに、蜜柑方は指定問屋と結んで利益の確保を図る販売システムを作りあげた。 しかし、有田において、蜜柑の栽培農家が増えるとともに正徳4年(1714年)には組株が29組となった。組株が乱立すると、足並みが乱れ、お互いに得にならないとして、「これ以上増えては困る」とばかりに既成組の代表者が奉行所に願い出て、新規設立を御法度にしてもらった。ここに蜜柑方は藩の許認可のもとに存在する「特許組合」となったのである。 |
9)紀州藩の保護政策 |
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紀州藩は有田蜜柑の販売と輸送の上で特別に保護政策をとっている。 |
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【1】 |
農家の共同出荷組織である蜜柑方制度を認証したのであるが、藩は蜜柑方に権力をもたすため「半官半民」の組織としている。すなわち、荷親、元締などの役員は荷主(組合員)から推挙されたが、さらに藩がこれを任命する形になっていた。 蜜柑方の役員は単なる百姓の代表ではなく、武士に準ぜられ、「苗字帯刀」も許された。陸路、江戸に下るときも東海道五十三次の宿においては丁重に扱われ、江戸の問屋は品川まで出迎えるという“紀州家御役人”としてのもてなしを受けた。 |
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【2】 |
蜜柑船には「紀州家御用」の高張提灯を掲げ、荷揚げ場にも同じものを掲げた。その提灯を見た他船は“紀州の蜜柑船だぞー”と警戒して航路を譲ったと言われている。 |
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【3】 |
蜜柑の荷揚げ場に紀州藩専属の岸壁を使用さした。 |
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【4】 |
問屋からの代金取り立てを援助。『紀州蜜柑傳来記』によると明暦2年(1656年)に江戸に大火(明暦の大火)あり、問屋も罹災して、江戸へ送った5万篭の代金のうち、九百四十両の大金がこげついてしまった。再三催促しても支払いがないため、途方にくれた肝煎り達が紀州藩にその旨を申し出た。藩では問屋達を呼び出して支払を命じ、残金を支払わせたとある。 以上のように、紀州藩の保護政策が徹底したお陰で江戸や尾張での有田蜜柑の販売は順調に伸び、農民達の恩恵は大きかった。 |
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10)紀州藩の蜜柑税 |
紀州藩が蜜柑産業に特別の保護政策をとったのは、一つは室町時代から紀州には戦乱が多く、特に、天正13年3月の豊臣秀吉の紀州攻めによって、紀州は灰塵の被害を受ける。また、紀州は8割強が山で平地が少なく、田畑からの収穫が低く、農民は貧しかった。そのため、初代藩主徳川頼宣公以来、藩民の生活安定のための産業政策に力を入れていた。二つは農民達の収入を増やして生活を安定させ、「年貢」を取り立て、藩財政を豊かにすることにあった。 有田蜜柑の江戸での販売は寛永年間(1624年~1643年)に芽生えた「蜜柑方」制度による。江戸での販売は大きく伸び、有田の蜜柑農家の増加と収入の伸びを導いた。 紀州藩が蜜柑の売り上げに対して“御口銀”と称して税金を課すようになったのは、元禄11年(1698年)のことである。『紀州蜜柑傳来記』によると、その時の税金は蜜柑一篭(15kg)を基準とした。江戸廻し一篭につき銀一分。近国廻しは銀八厘。尚、正徳4年(1714年)には新金銀吹替えがあり、賦課金が半減している。江戸廻し一篭につき銀5厘、近国廻しは銀4厘。元禄から正徳時代には毎年30万篭から40万篭が江戸に出荷されており、紀州藩の財政への貢献は大きかったと思われる。 元禄時代も中期になると治安も安定し、商人・町人の勢力が伸び、相対的に武士の立場が弱くなっていった。つまり、商人・町人達の生活レベルの向上に比べ、「合戦」、「武芸」の場のなくなった武士達の収入は増えなかったのである。そのため各藩は、藩財政確保のため「新課税」の創設に力をいれており、和歌山藩も藩外への売り上げの伸びてきた「蜜柑」へ税を課したことは当然と言えよう。 尚、元禄11年(1698年)には井原西鶴が町人の成功・失敗談を描いた『日本永代蔵』を刊行している。又元禄15年(1702年)12月14日には赤穂浪士47士が吉良家へ討ち入りをしている。 |