有田みかんの歴史は天正2年(1574年) 伊藤家六代孫右衛門が 肥後国八代より 小みかんの小木2本を持ち帰ったことに始まります。
江戸時代には日本初のみかん共同出荷組織「蜜柑方」を設置し、生産量が飛躍的に伸び全国に流通を広げました。
江戸末期には紀州みかんの出荷量がおよそ15,000tに達しました。以後、日本の食文化にみかんを定着させ、日本のみかん産業を牽引しています。
在来のみかんを各地で栽培 (出典: 糸我社由緒(1810年))
1574年、伊藤孫右衛門が肥後国八代より「八代の小みかん」の小木2本を持ち帰る (出典:紀州蜜柑傳来記 (1734年))
紀州藩による栽培奨励・保護政策 (出典:紀州蜜柑傳来記(1734年))
小みかんは江戸・上方・尾張などに出荷
全国に先駆け 「紀州小みかん」 から 「温州みかん」 への転換を進める。
温州みかん: 1500~1600年頃、鹿児島県で偶然発生したとされる 「種子がない=子孫繁栄に繋がらない」として、江戸時代には普及せず。